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花が咲いている世界

 

非常に重い病気になって、医者から見放された状態、あるいは、軍隊で散々こかつかわれて、惨憺たる人生経験をさせられますと、欲も得もなくなるのです。利害得失を考える気持ちが消えてしまうのです。その時、自分の命の根源にふれたような気持ちになるのです。
そういう気持ちは何かと言いますと、命に直面してはいるのです。その時、命とは何かを勉強していないと、命を目の前に見ていながら、命が分からない。みすみす生死の境をさまようよう痛切な経験をしていながら、実は、生も死も分かっていないという状態になるのです。惜しいことです。欲も得もない、全く生死をさまよう状態で、魂の目が開きますとすぐ分かるのです。
ところが、軍隊では聖書の勉強をさせないのす。命とは何かを心得ないで、さんざん苦労をしましても、その苦労が身につかないのです。魂の経験にはならないのです。人間の経験にはなりますが、霊魂の経験にはならないのです。
人間と霊魂は、全然別なのです。霊魂は固有名詞の人間と、何の関係もないのです。これが厳しいのです。
まず、人間として生きることをやめたいと願い、霊魂で生きたいと思うことです。そうすると、色即是空、五蘊皆空が分かるのです。魂の目を開きたいという気持ちを持つことが必要なのです。心眼を聞きたいと思いながら生きるのです。
例えば、花を見ると美しいと思います。美しいことが分かるのは、魂が働いているから分かるのです。ところが、花を見て美しいとは思うけれど、美しいとはどういうことかが、説明できないのです、美しいとはどういうことか、おいしいとはどういうことかが、分からないのです。
花をじっと、十五~二十分位見ていますと、言うに言われない世界があることが分かります。色や形や香りの中に、口では言えない世界があるのです。これが命の世界です。命の世界を、魂は何となく感じるのです。だから美しいと思うのです。
美しいと思うのは、魂が感じているのですから、人間の常識では説明ができないのです。常識は、人間の肉の思いです。肉体的な感覚です。肉体的な感覚では、美しいということの説明ができないのです。ところが、魂では分かっているのです。非常に敏感な、素朴な、直接的な感覚が、魂に響いてくるのです。
人間は花を見ます。しかし、その世界へ入ることはできない。人間としてそれを見ているからです。
人間の基本的な能力、生命力は、先天的なものです。本能的にそれを見るから、美しいということが分かるのです。分かるけれども、それが自分の霊魂の功徳にならない。霊魂のプラスにはならないのです。霊魂のプラスにするためには、霊の目を開かなければいけないのです。
私たちは、毎日太陽を見ています。太陽の光は、永遠の命の現われなのです。永遠の命が、実物として現われているのです。太陽光線を感じていながら、その功徳が分からない。これが、魂が死んでいる証拠なのです。
聖書には、悔い改めて福音を信じなさいという言葉があります。悔い改めてというのは、心を入れ替えてということです。精神を入れ替えて、やり直せということです。
精神を入れ替えるとはどうすることかと言いますと、今まで常識的に考えていたことをやめて、魂的に考えるようにすることです。
太陽光線を見ていながら、神の命が分からない。死なない命が分からない。太陽光線の中に生きているということは、死なない命の真ん中にいることなのです。ところが、人間は太陽光線の真ん中にいながら、死なない命の真ん中にいながら、命が分からない。これが、霊魂が盲である証拠なのです。
魂の目を開くことが、とこしえの命を見ることなのです。
そのように、人間は現実に、花を見たり、太陽を見たり、月を見たり、海を見たり、雲の流れを見ているのです。永遠の命はどこにでもあるのです。食べれば、物の味が永遠の命になっているのです。
ところが、それを自分の命にしていない。これが迷いというものです。肉体人間として生きているのは、迷いの中で生きているのです。聖書的に言いますと、肉の思いで生きている。
般若ハラミタというのは、今まで考えていた考えをやめて、本当に素直な、素朴な気持ちになることです。そうすると、もっと深いことを教えられるのです。神が天地をどうして造ったのか。何のために造ったのか。何のために霊魂がこの世に出てきたのかという、非常に重大なことを教えられるのです。
現に人間は、花が咲いている世界を目で見ているのです。目で見ていながら、花が咲いている世界が経験できない。目で見ていながら、魂が経験していない。
魂が、花が咲いている世界に中へ入っていくのです。これが死なない世界なのです。しかし、死なない世界の命の生かし方を知らないのです。おいしいことが分かる人は、死なない命をつかむ能力があることを証明しているのです。美しい、おいしいことが分かりながら、みすみすその命を棒にふって地獄へ行くことになりますと、大変なことになるのです。
宗教は嘘ではないのですけれど、非常に不十分で独断的なのです。日本では、日蓮上人、親鸞上人、道元禅師という人が宗派を開いています。その人たちの信仰が基礎になって、現在の宗派ができているのです。これは嘘ではありません。その人の宗教であったことは間違いないのです。その宗派を信じている人は、その宗派が天下の真理だとか、世界一だと言うでしょう。それはあくまでもその宗派を信じている人の考えであって、世界全体にあてはめられるものではないのです。
人間は肉体を持っている人間の立場から物事を考えていますが、般若心経から見ますと、その気持ちが間違っていると言っているのです。肉体を持っていることは、絶対的なことではないのです。何十年かの間、人間は地上で、肉体を持たされているのです。持っているのではなくて、持たされているのです。持たされているというのは、肉体は人間自身で造ったのではないということです。
そうしますと、人に肉体を与えた何者かがあるのです。神と言おうが、仏と言おうが、何かの意志によって、肉体が人間に与えられていることになります。人間の肉体はどういうものかということですが、これを般若心経的に考えますと、人間の肉体は暫定的な存在です。現在、地球が太陽系宇宙に存在することさえも、大宇宙から考えますと、暫定的な問題であって、永遠の真理ではないのです。
地球は必ずいつか消えてしまいます。地球上に肉体を持った人間が、一人も住まなくなる時が来るに決まっているのです。原水爆戦争でも始まれば、人間は瞬間的に無くなってしまいます。そうすると、人間が住めない地球ができるに決まっているのです。遅かれ早かれそうなるのです。
原水爆戦争をしないにしても、地球は燃えてしまうか、冷えてしまうか、地球上に人間が一人も住めなくなる時代が、必ずやってくるのです。従って、肉体的に存在する人間の考えは、一定の時間しか通用しないのです。永遠の真理ではありません。
今人間が経験している命は、永遠に存在する可能性があるのです。肉体的に生きている人間は、必ずこの世を去らねばならないけれど、命の本性をつかまえることができるとすれば、肉体はなくなっても、命は永遠になくならないという確証をはっきり持つことができるのです。
イエス・キリストの復活は、肉体的存在だけを信じるという角度から言いますと、半分ぐらいの説明しかできません。後の半分は、肉体的に存在しない人間の領分に入り込んでくるのです。だから、色即是空という般若心経の概念が分かっていないと、イエスの復活は分からないのです。
まず世界観を広げることです。肉体的に生きているということだけにこだわらないで、大きく考えるのです。
人間は、この世に生まれてきたのです。そして、死んでいくのです。そうしますと、現世に生きている間だけが人生ではありません。現世に生まれてくる前の命があったのです。それがなければ、生まれてくるはずがないのです。死んでどこかへ行くのです。過去、現在、未来の命について、大きな考え方をする必要があるのです。そうすると、イエスの復活の問題を理解して頂けるチャンスがあるのです。
イエスは現在、現存しているのです。今年は西暦2008年です。これほどういうことかということです。
声前の一句千聖不伝という言葉があります。この声前の一句を見つけたらいいのです。例えばできたてのごちそうを見た瞬間に、おいしそうだと思います。これが声前の一句です。食前の一味と言った方がよいかもしれません。食べる前においしそうだという味が感じられるのです。これが命を見つける方法なのです。
名月が出る夜に、団子を作って名月が出るのを待っている気持ちです。これも声前の一句みたいなものです。人間は何となく月の光を通して、命の輝きを感じるのです。こういうことは芭蕉の俳句にはたくさんあるのです。声前の一句があるのです。月が出る前に、月の姿が見えるのです。この感覚が、死なない命の味なのです。これが分かりますと、永遠の命がどういうものかが分かるのです。
五官の鋭敏な感覚は、常識とは違うのです。学校で勉強する学問とは違うのです。五官には、本性的に生まれる前のすばらしい直感力があるのです。だから、食べる前に味を知ることができるし、見る前に姿を見ることができるのです。
例えば、男から見ますと、女の人が非常に愛らしく見えるのです。女の人がなぜカレンダーや雑誌に多く掲載されるのかということです。女の人の、いわゆる色気が声前の一句です。
そのように、私たちの直感力、感受性はすばらしいものであって、これを活用するとだんだん分かってくるのです。命の本質を捉えることは、決して難しいものではないのです。宗教家が難しくいうからいけないのです。私たちの生活を通して、命の本質を見つけるチャンスは、いくらでもあるのです。
お茶を飲んでも、何かを食べても、命の本質を捉えるチャンスは、何十回も何百回もあるのです。
 

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