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空と実


般若心経は空を説いています。聖者は実を説いています。聖書を普通の常識的な頭で勉強していますと、本当の実が分からないのです。聖書は神の言葉でありまして、神の御霊の思想がそのまま言葉になって現れています。
神の御霊は、人間の命の実質、実体そのものなのです。ところが、キリスト教では、人間の命の実質、実体を正しくつかまえないで、キリスト教の神学を説いているのです。
イエス・キリストの十字架によって、罪があがなわれたと言っています。その言葉に間違いはありませんが、罪とは一体何か、あがないとは何か、キリストを信じると、魂がどのように具体的に変化するかということを、はっきり説明していません。
なぜかと言いますと、キリスト教の先生も信者の人も、生きている人間が聖書を信じているからです。そこで間違ってくるのです。生きている人間が聖書を信じると、人間的な信じ方になってしまうのです。
これは仏教でも言えます。人間が仏さんを信じているのです。人間がイエス・キリストを信じているのです。そんな事を何回しても本当のことは絶対に分かりません。
聖書には、悔い改めて福音を信ぜよという言葉があります。悔い改めるとはどうするかこれがキリスト教では分からないのです。
キリスト教で説いているのは、キリスト教の神学です。教義、ドクトリンです。これは間違ってはいませんが、本当のことではないのです。入口なのです。奥の方まで入っていかないのです。
聖書を正しく信じようと思ったら、まず自分自身を空じることです。パウロが、新約聖書ローマ人への手紙十二章三節で言っていますように、心を更えて新しくするということです。心は英語ではマインド(mind)になっています。精神を更えることです。更えるとはレニュー(renew)であって、精神を根本的にやりなおすという意味なのです。人間が人間の精神を持ったままで、聖書を信じることはできないのです。やってもだめなのです。
世界中のキリスト教は、人間が救われると思っているのです。人間は救われないのです。魂が救われるのです。
ところが、キリスト教では、魂のことが厳密に説かれていないのです。魂が何であるか分かっていないのです。なぜそうなるかといいますと、キリスト教の人々は、キリスト教という宗教の立場から聖書を読んでいるからです。人間が幸いになるという立場から読んでいるのです。
聖書の勉強をしようと思えば、まず十字架の経験をすることです。これをしなければ、何十年キリスト教の勉強をしてもだめなのです。
十字架は、人間の肉(常識的な考え方)を殺してしまうのです。私はキリストと共に十字架につけられたとパウロは言っています。私はもはや生きていない。今ここに生きているのは、キリストが生きていると言っているのです。
この言葉を無教会の人々はすっかり間違えているのです。内村鑑三氏は、聖書を正しく読んでいないのです。キリスト教の神学ばかり勉強していたのです。彼はたくさん本を書いていますが、キリスト教の講義ばかりです。聖書の正しい講義はないのです。
結局、宗教は嘘を述べていることになります。本当のことを説いていないから、嘘になってしまうのです。宗教の教理、教義を、本当の事のように言いふらしているのです。これがキリスト教の間違いです。
イエスは、自分の命が救われたいと思うものは、かえって、滅びてしまうと言っています。己が魂を救おうとする者は、これを失うと言っているのです。
命は、宇宙に一つしかないのです。イエスが甦った命しかないのです。イエスの復活の命が自分のものにならなければ、だめなのです。この点が宗教とは全然違うのです。
聖書は、宗教ではありません。世界中十数億のキリスト教信者は、皆、自分が救われたいと思っているのです。これが間違っているのです。
本当に、永遠の命の実物をつかまえようと思えば、聖書に基づいて、自分の魂の勉強をするしかないのです。そうしますと、自分がいないことが自然に分かるのです。
そのためには、般若心経の空という門を通過するのが一番良いのです。新約聖書の中で、パウロは、ギリシャ人にはギリシャ人のように、ユダヤ人にはユダヤ人のように説けといっています。従って、日本人には日本人のように聖書を説かなければいけないのです。
日本の文化は、空に基づいてできている文化です。空を基礎にして、お茶とかお花を勉強しています。この民族に聖書を説くためには、般若心経から入るのが一番良いのです。
日本のキリスト教は、般若心経から入りなおさなければだめです。空が分からないものに、十字架は分からないのです。日本人は、空が分かって初めて、十字架が分かるのです。
ヨーロッパ人は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを充分に勉強すれば、人間がむなしいことが分かるのです。それから新約聖書を勉強することができるのです。
ユダヤ人は、モーセの掟にさんざん苦しんでから、新約聖書を信じることができるのです。
イエス・キリストを信じるためには、まず自分がからっぽにならなければだめなのです。イエスは、新約聖書マタイによる福音書の中で、『私についてきたいと思うなら、自分をすて、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい』(16・24)と言っています。己を捨て、
己が十字架を負うことが、般若心経の色即是空、五蘊皆空です。空が本当に分からなければ、実は絶対に分かりません。
今の人間が生きている命が、空なのです。空とは、死ぬべき命を言うのですが、その向こうに死なない実があるのです。実とは、死なない命のことです。イエスの復活は、死を破った命なのです。
今の人間が生きている命は、死んでしまうに決まっている命です。だから、今生きている命を自分の命だと思っている人は、必ず死にます。死んでから間違いなく地獄にいくのです。
空には二つの意味があります。生空と我空です。この両方をマスターしなければいけないのです。
生空というのは、現在、自分が生きている状態です。現在、自分が生きている感覚です。これが空なのです。つまり、現象世界があるという気持ちで生きていることが、生空です。これを捨ててしまうのです。
我空というのは、自分が生きていると思うことです。これを捨てるのです。
人間は、誰もが、自分が生きていると思いこんでいる。その人は神の命を横取りしているのです。人間は神から命を預けられているのです。その証拠に、生理機能、心理機能を自分で自由にコントロールすることができません。心臓や肝臓が悪くなっても、自分で治すことができないのです。大脳には万物の命が入っているのです。人の脳細胞は神のコンピューターのようなものです。
人は生まれながらにして、植物の命、動物の命、昆虫の命、太陽の命、地球の命に対する直感的な認識があるのです。これが神のインプットなのです。生まれる前に、神のインプットによって、人の脳細胞には、驚くべき知識が秘められているのです。それによって動物の命の状態が分かるのです。植物の命の状態が分かるのです。天体の状態が分かるのです。
だから、植木屋になったり、百姓になったり、養魚をすることもできるのです。
生物を養うことができるのは、人の能力の中に、万物全体の命がインプットされているからです。ですから、命は人間のものとは違うのです。神が、人の脳細胞の中に、驚くべき高価なものをインプットしているのです。神の知恵と知識が、たたみこまれているのです。
花を見れば、美しいことが分かるのです。花の命が分かるのです。花の命が分かる人は、花を育てることができるのです。人間は、万物の長なのです。人の脳細胞の中に、天地万物のあらゆる命がインプットされている。
ですから、聖書にもとづいて、神の御霊によって、自分自身の命を見ていけば、人の命はそのまま天地万物を貫く、無限の能力性があることが分かるのです。万物を生かすことも殺すこともできるような、恐ろしい力が大脳の中にあるのです。
その勉強をするためには、どうしても、自分自身の気持ちを空じてしまわなければだめです。自分がいると思うことが、間違っているのです。人間は、自分が生きていると思う悪い癖があるのです。
人間は、自分で生まれたいと思ったのではありません。だから、今生きている命は、自分のものではないのです。
自分が生まれたいと思ったなら、自分の命かもしれない。ところが、自分が生まれたいと思わないでも、勝手に生まれていたのです。「おのずから」生まれていたのです。
自分というのは、「おのずから」の分です。これが人間の命なのです。人間は、「おのずから」生まれてきたのであって、自分が生まれたいと思って生まれたのではありません。イエスはこれが分かったのです。これが初めて分かったのです。
だから、イエスのまねをしなければ、救われないのです。キリシタンと思われようが、どう思われようが、イエスのまねをしなければ、本当の命をつかまえることはできないのです。
弘法大師のまねをしてもだめです。親鸞のまねをしてもだめです。親鸞は、自分の命がどういうものかを、はっきり説明していないのです。知らなかったのです。
神の命を人間は現在持っています。それが五官です。五官が永遠の命の実体なのです。これが世界でたった一つの尊い宝です。宝ものがすべての人に秘められているのです。これをはっきりと受けとるために、般若心経と聖書を学ぶ必要があるのです。
 

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