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肉の思いから離脱するために


新約聖書マタイによる福音書十九章に、あるユダヤの青年が、「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と、イエスに向かって質問をしているところがあります。
永遠の命を得る、死に勝つためには何をしたらいいか。何もしなくてもいいのです。どのように物を考えればよいかというだけのことです。
肉の思いが死なのです(ローマ人への手紙八章六節)。現世で生きている常識が、肉の思いなのです。なぜ、肉の思いかといいますと、人間の常識は、死んだ人間の言い残したこと、又、考えていたことにきまっているのです。
人間の常識は、死んだ人間のしたことの集積なのです。現世の文明、文化は、亡者の繰り言ばかりなのです。死んだ人間の情報でない文化論は、一つもないのです。人間の文明意識がまちがっているのです。
道元禅師の正法眼蔵に、「生を明らめ死を明らめるは、仏家一大事の因縁なり」という言葉があります。この言葉を、よく考えてみる必要があります。因縁とは、そうなるにきまっていること、又、そうであるにきまっていることなのです。
生を明らめるとは、明らかにすることなのです。生きていることが何であるのか。死が何であるのか。これを、明らかにすることが、人間の一大事、因縁であるというのです。
実は、道元禅師は、永遠の生命の実体を日本に提供した人ではないのです。道元は、すばらしい逸材でした。都では、宗教観念がクモのように集っていて、本当のことを聞く人はない。本当のことを言う気にもなれないので、田舎の山にたてこもって、一戸、半戸を説得すると言っているのです。彼は、いわゆる宗教家ではなかったようです。
この道元禅師が、言っているのですが、人間一大事の因縁とは、生が何であるかを明らかにすること。つまり、何のために生きているのかを、明らかにすることだといっているのです。
因縁とは、人間がしなければならないことをさしているのです。この世で生活することよりも、家族のことを考えるよりも、もっと大きい基本的な問題は、生を明らかにすること、死を明らかにすることだといっているのです。
ところが、人間の常識は、この世で生活することを、第一義にしています。これが、根本から間違っているのです。肉の思いは、現世で、人間が肉体的に生きているという考え方が基礎になってできている生活の概念です。
ところが、人間が肉体的に生きているのは、限られた時間だけなのです。こんなことは分かっているのです。分かっているが、信じていないのです。これが、現代人の悪いくせなのです。
例えば、道元禅師の正法眼蔵を読んでいる人は、たくさんあります。生を明らめ、死を明らめるは、仏家一大事の因縁なりと、お経のように読んでいるのです。しかし、仏家一大事の因縁なりという意味が、分らないのです。分っても、それを真実のこととして考えないのです。こういう人が、日本にはたくさんいるのです。
般若心経もその通りです。五蘊皆空を、いやというほど言っています。色即是空という考えは、ちょっと文学的な素養のある人なら、誰でも知っているでしょう。ところが、色即是空という言葉のもつ意味が分らない。又その意味が、少し分ったとしても、その人の心に定着していないのです。定着していないのは、信じていないからです。信じないなら、
始めから、色即是空と言わなければいいのです。
ところが、日本人は言うのです。言いながら、信じようとしないのです。これはまるで、般若心経を嘲弄しているのです。嘲弄するくらいなら読まない方がいいのですが、これは、日本社会の困ったことなのです。
肉の思いは死であるという言葉でも、キリスト教の人々は皆知っています。知っていますが、信じていないのです。それは、まるで、聖書を嘲弄しているのです。神をバカにしているのです。こういうことを、キリスト教や仏教がしているのです。
宗教は、実にけしからん事をしているのです。宗教の語法は正しいことを言っているのですが、理解はしていないのです。理解はしても、信じてはいない。信じていても、行っていないのです。
とにかく、今の人間は困ったものです。死を、まともに考えようとしていないのです。肉の思いが死であるという重大なことでさえも、見過しにすることが、世間の常識になっているのです。肉の思いという言い方は、聖書独特の言い方です。これは自我意識、現象意識を持ったことを意味するのです。
霊の思いという言い方もありますが、これは物事の本質的な思いを指しています。人間が人間であることの本質、地球が地球であることの本質が霊で、それに基ずく思いが霊の思いです。
肉の思いがなぜ死であるかといいますと、自我意識、即ち自分がいると言う意識が間違っているのです。人間は自分の意思で生まれてきたのではありません。生まれた瞬間を、全く意識していないのです。生まれて何年か過ぎてから、いつ、どこで生まれたかと言うことを、教えられるのです。それに加えて、生まれた年月日、国、民族、男女別、肌の色、顔の形を、自分で決めていません。自分の名前でさえも自分で決めていません。ですから、自分はどこにもいないのです。どこを捜してもいないのです。自分がいるというのは、全くの妄念です。般若心経はこの間違いを、五蘊皆空と言っているのです。
現象意識とは何か。人間は眼に見える現象が実体であると、硬く思い込んでいます。これが間違っています。眼に見える現象的物体は、毎日、毎日変化しています。もっとはっきり言えば、瞬間、瞬間変化を繰り返しているのです。新陳代謝をしているのです。私たちは物体の変化の過程を見ているのです。
理論物理学では、物体はエネルギーである。エネルギーが物体なっていると説明しています。この原理を実際に応用したのが、原子爆弾です。皮肉にも、広島や長崎に投下された原子爆弾が、物質が存在しないことを証明しているのです。
物質とは何かといいますと、すべて電気現象です。原子核の回りを電子が猛烈なスピードで回っている。一秒間に一億四千五百万回という恐ろしい速さで、回っている。それが物質になって現われているのです。
電子の運動が、物質のようになって見えるのであって、物質という固体があるわけではない。その証拠に、もし電子が運動を停止すれば、物質は一瞬にして消滅してしまうのです。般若心経はこれを、色即是空と喝破しています。眼に見える現象的物体は実体ではない。一切空と切り捨てているのです。
だから、宗教は人間の魂を滅ぼしてしまうものなのです。これは、泥棒よりも、もっと悪いのです。泥棒は金を盗むだけですが、宗教は魂を盗むのです。これは、ひどいのです。金を盗むことは悪いが、魂を盗むことは、もっと悪いのです。現代の日本社会の欠陥が、ここにはっきり現われているのです。
死をのりこえるためには、どうするか。肉の思いが死であることを、のりこえるにはどうするか。これはどう思うかということなのです。
まず考えなければならないことは、人間は、現世に生きるために生まれてきたのではないということです。人間はこの世で生活するために生まれてきたのではないということを、新約聖書も、大乗仏教の中心思想も、明らかに指摘しているのです。般若心経は、その端的な一例です。
人間が、現世で生活していても、しかたがないのです。なぜかといいますと、人間は必ず死ぬにきまっているからです。どんなにお金をもうけても、地位や名誉を獲得しても、やがてこの世を去るのです。七十年、八十年生きていて、人間の本質について、何が分ったのでしょうか。生を明らめ、死を明らめることができたのかということです。
新約聖書の思想で言いますと、人間は、現世へ、神を学ぶため、命を学ぶためにきたといっているのです。こういう言葉そのものはないのですが、新約聖書全体に、そういう思想が流れているのです。
現世に生きるのではなくて、永遠に生きるのが、新約聖書の目標です。現世に生きていることは、肉体的に生きていることですが、肉体的に生きていることは、不確実な、不明瞭な、あるいは不明朗なことなのです。もやもやした状態で、何となくこの世で生きているだけのことなのです。
例えば、テレビで中継されている国会座談会が、現世の縮図みたいなものです。それぞれの党が、党利党略によって、戦術をねったり、理屈を並べたりしているのです。
個人の生活でも、社会の中でも、学校の中でも、必ず孤立があります。サラ金で金を借りて、首をつるという悲劇が、必ず起きるのです。日本は、そういう社会なのです。こういう社会に生きていることに、どういう意味があるかということです。
私達は、生活するために生まれてきたのではなくて、命の本質を学ぶために生れてきたのです。
人間が本当の人間であるためには、現世を乗り越えなければならないのです。釈尊が、五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃という言い方をしていますのは、現世に生きることではなくて、永遠に生きるべきであることを、端的に指摘しているのです。
六十年、七十年生きてきても、命の本質については、何も分かっていない。ただ生活をしていただけなのです。
結婚をして、家庭をもって、子供を生んで、育ててきた。これが、永遠から見て何になるかということです。日本社会を繁栄に導いてきた。これが永遠から見てどういう意味を持つのかということです。
現在の文明に、理想があるのでしょうか。残念ながらないのです。学問にはっきりした目的がないのです。現在の社会を良くするとか、人間の生活を豊かにするとかいう目的はありますが、これは生活に関する目的です。生命に関する目的ではなのです。
文明は、生活は考えるけれど、生命は一切考えないのです。誤った一部のユダヤ人の世界観によって、こういう文明がつくられているのです。
ユダヤ人の考えは徹頭徹尾肉の思いであって、肉体的に生きている人間が人間だと考えています。この考えを全世界にばらまいているのです。これがユダヤ人の世界観です。
ユダヤ人が悪いのではなくて、ユダヤ人の世界観が悪いのです。これが世界全体を毒していて、文明に理想を持たせないような方向に、引っ張っていっているのです。ユダヤ人のメシヤ思想がそれです。マルクスの革命論は、そういう所を目標にしているのです。自由の王国がそれです。
人間一大事の因縁とは、なさねばならないこと、やらねばならないことを意味しているのです。人間は、家庭をつくるために生まれたのではないのです。家庭も必要です。子女の教育も必要です。さらに必要なのは、人間が生きていることの本質を弁えることです。
日本の社会には、命を弁えるための勉強が、全然ないのです。生活はありますが、命を考える習慣がなくなっているのです。明治以後の日本は、非常に悪くなっているのです。西欧文明というのは、ユダヤ文明です。この感化を受けて、現世主義に転落してしまっているのです。
明治までの日本人は、少しは人生のことを考えたのです。後生大事という言葉があったのです。明治以後には、後生大事がなくなって、現世大事ばかりになってしまったのです。現世の生活で、どのように楽しく暮らすかだけを考えているのです。享楽主義的な生活意識になってしまっているのです。
人間が現世を享楽できるということが、被造物の人間としての、すばらしい特権なのです。
私たちは自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。だから、現世をたのしむことができるのは、それだけ重大な責任があるということなのです。
今の地球は未完成の地球であって、人間も未完成です。人間が生きている社会が、最高のものではないのです。
地震が起きるとか、砂漠があるというのは、未完成の地球を示しているのです。地球という物体は、生きているのです。生きているものには目的があるに決まっているのです。
地球には地球完成と言う大目的があるのです。人間もまた、人間完成という大目的があるのです。これは現世に生きることではありません。命を心得えて、命の本質に従って、生を明らめること、死を明らめることなのです。
そのような大きい考えを持つことが、肉の思いが死であるという状態から離脱するための、第一の原則なのです。
現実に生きていることを第一義に考えないで、人間完成、地球完成ということを、第一義にして頂きたいのです。このことを仏教では、草木国土悉皆成仏と言いますが、聖書はもっとはっきりした言い方で、神の約束の完成と言っています。
そのように、地球には、言葉では言えないような壮厳な目的があるのです。現在生きている人間が、とても、考えられないような、すばらしい理想があり、目的があります。これを神の約束といっています。
そのために、人間が存在するのであって、現世で生活するために生きているのではないのです。
 

 

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