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死の則

 

もともとこの宇宙には、死がなかったのです。生が本当の命であって、それ以外に物理的に現われた命はなかったのです。命の本質は霊なるものであって、霊というのはことがらなのです。
目が見える、耳が聞こえることが、霊なのです。目に見えないけれど、無形の働きをしていることを霊というのです。これが、地球ができる前にあったのです。
ところが、聖書によりますと、悪魔という言葉が使われているものがあるのです。悪魔というのは、悪そのもの、魔そのものであって、悪魔という日本語の訳は、非常に優秀な訳です。朝鮮語では、魔鬼といいます。魔鬼ですと魔だけを意味することになって、悪をあまり意味しないのです。
天魔という言葉もありますが、悪魔という言い方が非常にいいと思います。悪魔が死を創造したのです。死を造ったのです。悪魔はもとはルシファーと言われる神の大天使であって、すぐれた能力を与えられていたのですが、その能力を自分の能力であるかのように誤信してしまったのです。
自分の力が偉いと思ったのです。そこで神に対抗して、自分の思想を確立することを考えた。これが死です。逆性です。逆性とはあるべき本来の姿に対して、自分の立場から、自己を主張することです。人間の自我意識が逆性です。逆性の本体が、死の法則なのです。
死の則が宇宙に発生したのです。これを神が撃滅しなければならない必要が起きた。この時、弁証法的原理が発生したのです。神はテーゼであって、神に対するアンチテーゼが発生したのです。神と悪魔との闘いは、宇宙全体のスケールにおける大弁証法なのです。そういう形で、神と悪魔との闘いが始った。これが天地創造の原理なのです。
本来銀河系宇宙全体は、ガス体ばかりだったのです。地球はもともとなかったのです。現在、太陽系宇宙には物質的な惑星はありますが、太陽系以外の星は、ほとんどガス体なのです。ガス体というのは、生でも死でもない、形なくむなしくという状態であって茫々漠々とした存在なのです。これが本来の宇宙だったのです。
これに対して、自分がいるという思想が発生した。悪魔によって自我意識が発生して、死ができた。この死を滅ぼす必要がおきたので、神が命を現象全体で表現しなければならない必要が起きたのです。
現在人間が見ているのは、現象的に現われた命を見ているのです。花の姿、太陽の輝き、森羅万象は現象的に現われた命であって、それを見て、現象は仮の姿であり、本当の命がこういう形で現われていることに気がついた人だけが、神の子としてとり扱われて、永遠の命によみがえることを許される。これがいわゆるキリスト計画なのです。
色即是空が本当に分った人が、空即是色が分るのです。地球の歴史は、神の処置によって動いているのです。ユダヤ人を中心にして、神の処置によって歴史が展開しているのであって、日本が中心になっていないのです。アメリカも中心になっていないのです。ユダヤ人が中心になっている。これが神の世界経綸なのです。
そういう流れで、世界歴史が六千年間流れてきましたが、現在は、神ということ、キリストが明確に捉えられていない。
キリスト教は、カトリックもプロテスタントも、両方共間違っているのです。本当の命が説かれていない。キリスト教ほど間違ったものはないのです。宗教的にキリストを扱ってしまったために、仏教よりもっと悪いものになってしまったのです。
聖書を正しく読んでいきますと、死を破るために神が天地を創造したことが、明々白々に分るのです。神が考えた思想が、そのまま太陽になって現われているのです。神の言葉がそのまま有形的な物理現象になって現われているのです。太陽が存在することだけでも、聖書の科学的な証明はできるのです。
日本人は、神の約束を全然知らないのです。約束によって天地が造られている。約束によって、地球が自転、公転している。その宇宙構造を日本人は全然知らないのです。聖書を勉強している人はたくさんいますが、聖書が自分の命として分っている人は、ほとんどいないのです。
この宇宙に地球、人間ができたのは、宇宙に発生した死を滅ぼすためなのです。命は具体的事実であり、死が嘘であることをはっきり証明するために、地球、人間ができたのです。



 

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