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人間は1人しかいない


ペテロの第一の手紙3章18節に、イエスが肉にて十字架につけられて霊にて生かされたとあります。
イエスが十字架につけられたのは、彼の肉(肉体及び肉体意識)が十字架につけられたのです。イエスの肉は被造物全体を代表するものです。又、全人類の肉を代表するものです。人間の肉は被造物全体を代表するのです。これがイエスの肉によって一括されているのです。
イエスの十字架は人類の肉と共に万物の肉を一括して否定するという神の処置をそのまま現わしたのです。イエスの十字架によってすべての肉が十字架につけられた。その結果、肉がなくなってしまったのです。
もし皆様がイエスの十字架をお信じになるとすれば、皆様の肉はもうなくなっているのです。固有名詞で呼んでいる人間は、肉(現象的に現われた)の人間です。これはいないのです。
人間の実体は生かされているリビング(living)ということがらだけがあるのです。個々の人間が実存するように思い込んでいるだけであって、これが肉の思いなのです。
肉の思いの人間は、神の前にはもはや存在していません。これが、イエスが肉にて殺された。従って、肉が消えてしまったということになるのです。
十字架を負えとはこれを言っているのです。十字架を負えば固有名詞の皆様、肉体的に生きている皆様は消えてしまっていることがよく分かるはずです。
これは言葉で言えば難しいことですが、実際は何でもない。皆様は自分が生きていると思っています。自分が生きているという気持ちを取り消してしまえばいいだけのことです。
自分が生きているという事実はありません。固有名詞の人間がいると勝手に思い込んでいるだけです。
神は現世に生きている一人ひとりの人間を相手にしていません。肉というのは主観的に存在する人間全体を意味するのです。肉は肉体を指していますが、肉体的に生きている人間は、主観的に生きている人間のことを指しているのです。
イエスが肉にて殺されたというのは、肉体的な人間及び、主観的に生きている人間一切を意味するのです。
自分が生きているという主観的な気持ちは、イエスの十字架によって神の前に消えているのです。新約時代には主観的に生きている人間はいません。従って、主観的に生きている自分が救われるというばかなことは、絶対にありえないのです。
はっきり言いますとイエスの他に人間は一人もいないのです。簡単明瞭です。神はイエスだけしか認めていません。私に来たれとイエスが言うのは、私の中に住み込んでしまえと言っているのです。私という人柄の中に住み込んでしまえとイエスは言っているのです。これはイエスと一つになるためだとヨハネは何回も言っています。
人間が一つになるのです。一つになった人間が神と一つになるのです。これが贖いの原理であって、主観的に存在する人間は一人もいないのです。だから皆様は、自分が救われなければならないと考えてはいけないのです。自分が救われなければならないと考えるのが、キリスト教の考えです。聖書はこれに絶対に反対しているのです。
皆様が救われる可能性は万に一つもありません。皆様の客観的存在は霊の皆様であって、実はこれがイエスです。
固有名詞の人間は神の前にいないのです。固有名詞の自分の立場からいくら合理性を求めても、神はそれを与えません。人間の合理性は神に必要ないのです。主観的な人間がいくら存在していても、その人には生存目的は一切ありません。
人間の文明が存在しなければならない理由はどこにもないのです。現世には罪人がいるだけです。
神はこの世を認めていません。神が認めているのは大自然だけです。人間のワールドではありません。自然界のワールドを神が認めているのです。それだけのことです。この点が聖書とキリスト教の根本的な違いがあるのです。
個々の人間が救われるという事実はありません。イエスの中に全部の人間が住み込むべきです。神の家には住まいが多いと言っていますが、何人でも入れるのです。イエスが私に来なさいというのはそれを言っているのです。
自分が生きていると思っている間、はその人は死にます。自分が生きているという思いを捨ててしまえば、死ぬ必要はなくなってしまうのです。これがとこしえの命です。
主観的な認識を捨てさえすればいいのです。主観的な認識を捨てても、皆様の心臓が止まる訳ではありません。皆様の心臓が動いていること自体が客観的事実です。
寒い時には寒いと感じること、心臓が動いているという客観的な事実が皆様の命であって、皆様の心臓が動いているということを、簡単に、結論的に言いますと、イエスとなるのです。
イエスとはエホバ(神)が救いということですが、イエスという名前はそのまま人間自身の生き方が、神に付属しているものであることを、証明しているのです。これが皆様の客観的な実体であってこれがイエスなのです。これが新約時代の特徴です。
新約時代にはイエスの他に誰もいません。イエスの他に人間がいると考える現代文明が、ユダヤ人のトリックなのです。
死ぬべき人間は一人もいません。自分がいると思うから死ななければならないのです。
 

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