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孤独

 

人間は死ぬものだという考え方は、命をまじめに考えていない人間に共通する大欠陥です。世間の人は皆死ぬのだから、自分も死んでもしかたがないという考え方は、赤信号皆で渡れば怖くないという考え方です。
ところが、死んでしまいますと、皆で一緒という理屈は一切通用しないのです。全く永遠の孤独になるのです。
生きている人間は、自分の業にまといつかれて、自分という気持ちを持っている。これが孤独です。
本当に自分の気持ちを分かってくれる息子、娘はいないのです。妻も、兄弟も、自分の気持ちを本当に理解してくれる人間は、一人もいないのです。 
人間は全くの孤独です。全く孤独という状態が、死んでからの危険信号なのです。黄泉(よみ)の状態です。黄泉が、孤独という状態で現れているのです。
観世音になりますと、孤独がなくなってしまいます。神と一緒に生きていることが、はっきり分かるからです。
命には二種類ありまして命(めい)と生(せい)という命です。命というのは、現世に生きているという意味なのです。本当の命は生です。これは死なない命です。人間が今経験しているのは、死なない命を経験しているのです。
人間は現在生きています。これをしっかり見極めるのです。生きているという有難い業(ごう)です。この有り難い業をつきとめますと、観世音になるのです。これは死なないのです。これをギリシャ語でゾーエーと言います。ゾー(生)が魂となって働いているのです。
生が働いている状態のことを魂と言うのです。魂は死なないものなのです。死なない一番上等の命を経験しているのですから、これがよく分かれば、死ななくてもすむのです。
例えば、夏の暑い時にクーラーをつけた部屋に入ると、涼しく感じます。涼しいというのは何でしょうか。これが実は、死なない命の持ち味なのです。これを俗な言葉で言いますと、極楽になるのです。
極楽の本体は生なのです。これをつかまえたら、死ななくなるのです。
マグロのさしみを食べて感じる味は何か。暑い夏に冷いビールを飲んだら、素晴らしい味がします。これが実は命の味なのです。
それは、この世に生まれるまでに経験していた死なない命、本当の命、永遠の命を、五官によってもう一度経験しているのです。このつかまえ方が分からないから、生きていながら、みすみす死ななければならないことになるのです。
生きていることは、死なないことなのです。そういう特別の命を経験していながら、これに対する認識を持っていないために、この世の常識とか、この世の宗教というくだらないものにまといつかれているために、観世音することができない。そのために死ななければならないことになるのです。
五官の感覚は素晴らしいのです。マグロの味が間違いなく分かるのです。ビールの味が分かるのです。人間の五官の働きは、そのまま神の力なのです。これが人に備っているのです。これを無駄にしてはいけない。無駄にこの世を過ごしていますと、死んでから大変な税金をとられるのです。
死ぬと言うのは、人間が考えているような簡単なものではないのです。
生きているのは素晴らしい。なぜ素晴らしいかと言いますと、五官が本当の命を経験しているからです。 
目が見えること、耳が聞こえることが、神なのです。神の実物なのです。
神の実物を私達は持っているのです。これをはっきり感じるような気持ちを持ちさえすれば、今までの迷いは消えてしまうのです。
神は命です。命は神です。人間は神と一緒に生きています。生きていることの中にある神の実物をつかまえなければならないのです。
神が分からないと言うのは、今までの自分の無明煩悩によって見ているからです。今までの自分の経験を棚にあげて、子供のような素直な気持ちになって、命の実体、すなわち五官を見ればよいのです。



 

 

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