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空と霊

 

死んでいくのが、恐ろしくない、あたりまえだという考え方、これは、あたりまえだということもできます。それは、魂の目が開いた人が言うことなのです。現在、この世に生きていると思っている人は、死ぬことは恐ろしいことなのです。これを考え違いしますと、いけないのです。
色即是空、五蘊皆空を、本当に自分の生活で体験できる人はめったにいません。般若心経は、観自在菩薩が、般若ハラミタを深く行じていた時に、五蘊皆空が分ったと言っています。観自在菩薩のような人柄になりますと、生きていても、死んでいても、同じなのです。
ところが、観自在菩薩になっていない人が、死んでいくのはあたりまえ、死んだら、又、生活があると言うのは、いけないのです。
まず、五蘊皆空が本当に分るかどうか、般若ハラミタが実行できるかどうかなのです。千年もの間、般若心経は日本にありますが、今だに、般若ハラミタが分っていないのです。彼岸へ渡ってしまうことが分らない。それは、色即是空、五蘊皆空の空が、全然分っていないからです。
空を勉強しますと、死んでも生きても、同じだと言うことができるのです。空が実感できるまでは、うかつに、生死のことを言うことは、いけないのです。
いいかげんに、自分の頭で、自己流に解釈して、分ったと思いこむことは、注意すべきなのです。
空とは、どういうものか。人間は、空をいつも、経験しているのです。経験しているけれども、分らないのです。色即是空というけれど、その意味が分らないのです。
空と無という文字は、般若心経全体の、15%ほどあります。般若心経全体は276文字ですが、空と無という文字は、35字以上あります。15%以上あるのです。
空とはどういうことか。今の坊さんでは、絶対に分りません。今の日本の仏教でも、絶対に分りません。昔の人でも、分らなかったのです。道元とか、親鸞、法然というまじめな人達も、分らなかった。弘法大師も分らなかったのです。
人間は、毎日、空を経験しています。しかし、分らないのです。宗教を勉強して、それをつきぬけてしまったら、分るのです。宗教の中で、うろうろしている人には、一切分らないのです。
一体、五蘊皆空とはどういうことなのか。色即是空とはどういうことなのか。現在、六十歳の人は、六十年この世に生きてきたと思っている。これが間違っているのです。
人間が生きているのは、瞬間だけなのです。心臓が動いていることが、命なのです。太陽という男性が、地球という女性に、瞬間孕ませている。これが、空です。地球は、女です。太陽は男です。太陽という男性が、地球という女性に、瞬間、瞬間、孕ませている状態を、空というのです。
これが分らなければ、命は分らないのです。人間が女に孕ませているのは、業(ごう)になるのです。太陽の孕ませ方とは、ちょっと違うのです。太陽のようなセックスが、本当のセックスなのです。
そこで、天然自然の原理を考えて、人間は空をどのように経験しているかというと、心臓が動いていることと、太陽と地球の立場の両方を、一度に経験しているのです。天と地の姿を、一度に経験しているのです。この状態を、空というのです。
もう少し、分りやすく言いますと、空というのは、物を食べるということです。例えばミカンを食べます。ミカンの味がします。ミカンの味は、八百屋さんが造ったものとは違います。太陽という男性が、地球という女性に孕ませた味なのです。それがミカンの味なのです。この味を現実に味っていることが、空なのです。
実際、人間は生きていながら、命が分らない。もったいない生き方をしているのです。味わっていながら、味の意味が分らない。
味とは、太陽と地球の相関関係によってできた、命の味なのです。これが、リンゴとして、魚として、牛として、あらゆる森羅万象に現われている。それを、舌は、正確に味わうことができるのです。
こんなすばらしい魂を持っていながら、それが分っていない。それを自覚していないということは、無駄に命を生きていることになるのです。
湯水のように使うという言葉がありますが、お金を湯水のように使うことは、それほどぜいたくなことではありません。しかし、命を湯水のように使うことは、最も恐ろしいことなのです。不経済のことなのです。おそれ多いことなのです。
人間は、生きていながら、命の使い方をまるで知らないのです。そんなことで死ねると思ったら、大間違いです。人間が今まで何十年か生きてきたことは、空なのです。むなしいことなのです。
今まで60年間生きてきた人は、60年の時間があったと思います。ところが、60年という時間があったという考えは、ユダヤ主義の考えなのです。この考えが、肉の思いなのです。
現代文明は、ユダヤ主義を教えているのであって、現代文明にかぶれてしまうと、六十年生きてきたと思えるのです。これがとんでもないまちがいなのです。
般若心経は、そんなことは言っていません。諸法空相、不生不滅、不垢不浄といっている。人間は、生れていない。死んでいかないと、はっきり言っているのです。まだ人間は生れていないのです。六十才どころか、これから生れようとしているのです。命を勉強して、命の受け取り方が分ると、始めて、生れるのです。
人間の目は、空を見ているのです。物があると思える。物があるのではない。空があるのです。
こがらしが吹いているのは、太陽という男性が、地球という女性を、かわいがっている姿なのです。この状態を、霊というのです。木の葉が赤くなることが、霊なのです。ミカンの味が、空なのです。空というのは、太陽と地球の、交りの状態をいうのです。これが、本当のセックスなのです。
太陽と地球との、命の交りを空というのであって、そのために、いろいろな色ができたり、形ができたり、味ができたり、栄養ができたりするのです。これが天地の姿であって、人間は、それを見たり、聞いたり、手で触れたり、味わったりしています。これが、人格の働きなのです。又、生理機能、心理機能といってもよいのです。心理機能、生理機能が、霊魂の人格なのです。
霊という言葉は、見たり、聞いたり、手で触ったりしていることなのです。人の話が聞こえることが、霊なのです。話している人の人格と、聞いている人の人格が、触れあっているのです。
太陽が、一日働けば、必ず、地球に産ますべきものを産ましています。人間が人間に語ると、さっぱり効果がないのです。人間の魂が、不毛の状態だからなのです。霊魂が、死んでしまっているのです。だから、いくら命の言葉を聞いても、だめなのです。人間の魂が、現代文明によって、殺されているのです。気のどくなことです。
現代文明の、政治という柱、宗教という柱、教育という柱、伝統という柱によって、人間の霊魂は、完全につぶされているのです。恐ろしいことです。
人間の心は冷えきっています。学問、政治思想、社会通念という、人間の常識によって、魂は束縛されてしまっている。からめとられているのです。自由に物を考えることが、できなくなっている。分りたいと思っても、分ることができないほど、人の魂はひがんでいるのです。かたくなになっている。心を、柔くすることです。
太陽がいくら地球を照らしても、地球という女性が、根性を曲げていたら、米一粒もできないでしょう。太陽の愛に対して、地球は心を開いているのです。地球自身が、体を開いているのです。
このやり方が、人間の魂のあり方の見本になるのです。本当の男女の関係は、太陽と地球の関係に出ているのです。
ミカンの味は、空なのです。それを食べている人間のあり方を、霊というのです。空と霊は、そういう関係になるのです。霊は何かをする行動なのです。空は、そのものの本質なのです。味は空です。ミカンの色は、空です。ミカンの形も、空です。これを、色即是空というのです。
ミカンという物体はないのです。ただ、空という実体を、私達の舌で経験している。この状態を、霊というのです。ミカンを食べている姿が、霊なのです。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊と誠をもって礼拝すべきである(新約聖書ヨハネによる福音書四章二十四節)というすばらしい言葉があります。これは、私達が、毎日経験していることなのです。
ミカンの皮をむいて、その味がおいしいとお考えになれば、実は、神を礼拝している誠の礼拝になるのです。こういうことが、新しい命を受けとる方法になるのです。
心を開くのです。もっと柔かになるのです。地球という女性が、太陽という男性を受け入れるように、もっと大らかに、もっと素直に、なるのです。そうすると、魂は、新しい命を実感することができます。
人間が生きているのは、見たり、聞いたり、味ったりしていることなのです。今日という時に、命を経験しているのです。
 

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