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おのずからの本体


人間はこの世に生まれた時に、死なねばならないような状態で生まれてきたのです。だいたい人間は、生まれたいと思って生まれたのではありません。生まれたいと思って生まれた人は一人もいないのです。生まれたいと思って生まれてこなかったということは、客観的に生まれてきたけれど、主観的に生まれたことを認識しているのではないのです。
私達は自分の命を持っているのではないのです。自分が生きているのではないのです。人間は人格を与えられています。だから自分が生きているような気がするのです。気がするだけなのです。
生きるという言葉は、走る、歩くという言葉と同じように、自動詞なのです。自動詞というのは、本人の自由意志によって動き出すことをさすのです。生まれるという自動詞を用いていますけれど、実は、自分の意志で生まれた経験がないのです。これは生まれさせられたというべきでしょう。
人間は、自分の意志によらずに、客観的な方法で、生まれさせられたのです。神によるのか、天によるのか、結論的に言えば、人間は天地自然の法則に従って、「おのずから」生まれてきたのです。
「おのずから」というのが、人の親なのです。「おのずから」というのは何であるかということです。これを見つけたら、その時、自分の意志によって生まれることができるのです。                 
「おのずから」の本体は何であるか。これがあるということなのです。あるということが、「おのずから」なのです。これが分かるか分からないかによって、生まれてきた目的を果たしたか、果たさないかの決定がなされるのです。
どれだけ苦労してもだめです。理屈を並べてもだめです。あるということが分からなければ、一切の苦労は水の泡になってしまうのです。
人間の命の本体は、あるという所から出てきたのです。「おのずから」出てきているのです。マルクスは、人間は偶然に存在していると言っています。これは大間違いです。だから共産主義は土台を持たない主義なのです。経済、社会的な意味では土台を持っているでしょう。しかし、存在する、生きているという所から考えると、マルクスは全く子供じみた、だだっこみたいなことを言っているのです。これが革命主義なのです。
かつてそういうものに耳を貸す人は、大変多かったのですが、現在では少なくなっています。
自分が生きていると思っているのは、人間がそう思っているだけです。人間の思いは徹底して間違っているのです。人間の思いはうすっぺらな常識であって、生きている間は通用しますが、この世を去ってしまうと一切通用しません。
人間が勉強しなければならないのは、この世を去ってからでも通用するようなことです。これを新に生まれると新約聖書は言っています。
この世に生まれたのは、自分の自由意志で生まれたのではありませんから、改めて、自分の意志によって、命の本質をはっきりとらえることが、新に生まれるということです。
これをしなければならないのです。これしないで、いいかげんにごまかしておけば、必ず罰金をとられます。責任を遂行しなかったから、当然のことです。例えば、税金を納めなかったら、後から法律的に税金を請求されるのと同じことなのです。
人間は、与えられた能力を利用すれば、自分の命の本性を究明することは、誰でもできるのです。誰でもできることをしないから、刑罰を受けることになるのです。
神は愛という本性に従って、私達にアピールしています。例えば太陽光線のあり方、明るいとか、暖かいという状態が、そのまま愛を意味しているのです。
心臓が動いているのは、「おのずから」の命が働いているのです。鼻から息を出し入れしようと思わなくても、呼吸ができます。勝手に呼吸ができるということが、天地の命によって生かされていることなのです。
人間は現世に生まれてきて、なぜ矛盾の中へ放り込まれたのか。なぜ、命が分からないような状態において、私達は生かされているのか。そういう状態でなぜ生きていかなければならないのか。
もし、私達の人生が完全無欠であったら、命を求めようとしないでしょう。毎日、遊んでばかりいるでしょう。
現世で苦労をしなければならないような状態で生まれたということが、愛なのです。神が人間を罪の下へつっ込んだ。悪因縁の下に、人間をねじ込んだのです。なぜ神がこんなことをしたかといいますと、悪因縁にほとほと閉口して、悪因緑からのがれるために、何とか本当の悟りを開きたいという気持ちを起こさせるためなのです。そういう気持ちを持たざるをえないように、「おのずから」が仕向けているのです。神がそう仕向けているのです。
だから、私達は、この世において人間存在について、人生観について、矛盾を感じるということは、実は神の愛だと悟っていただきたいのです。
人間は現世において、苦しみを感じ、悲しさを経験しなければ、生きていけないような条件でこの世に生まれてきたのです。これが、「おのずから」の愛なのです。
人間に与えられている人格は、神の人格と同じ人格です。神と寸分も違わない人格を与えられている。だから、自分の主観的な意識をすてて、自分の考えをすてて、本当の自然に帰ることです。「おのずから」に帰りたいという誠意をもって、自分の命を見れば、誰でも分かるのです。
人間はこの世に生きるために生まれたのではないのです。経験するために生まれたのです。何を経験するかというと、死なない命を経験するためなのです。肉体という死ぬ命がある間に、死なない命をつかまえるのです。これを、神を経験すると言うのです。
神を経験するというのは、難しいものではありません。このやり方は一つしかないのです。
例えば花を見ているとします。花を見てなぜきれいだと思うのかということです。きれいなものを見てきれいだと思うのは、魂の目が開いていることなのです。
五官の働きというのは、霊魂の働きなのです。霊魂に目があり、耳があるのです。これが人間の五官として、現れているのです。花を見てきれいと思うこと、ごちそうを食べておいしいと思うことは、皆霊魂の働きなのです。
おいしいと感じるのは、おいしいと感じる当体があるから感じるのであって、おいしいという当体、又、美しいという当体が「おのずから」の正体なのです。あるというのはおごそかな存在です。
日本に現れた伝教大師も、弘法大師も日蓮も、親鸞も、道元も、「おのずから」を知らなかった。般若心経と聖書を二つ並べて見ることができなかったからです。
人間が現世に生まれて矛盾の中へ放り込まれたのは、現世を出て、「おのずから」の世界へ目を向けさせるためなのです。

 

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