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夜と昼


現在の地球は、未完成です。人間も未完成なのです。これを理解することは、それほど難しい問題ではないのです。
夜と昼がありますが、夜とは、闇が地球にわだかまっている事実を示しています。昼とは、光の力が働いていることです。この二つの力が働かなければ、地球では、物が成立しないのです。
今の地球は、いつ地震が起るか分らない。これは、地球が未完成であることの証拠です。
人間が死ぬということだけではなくて、台風がある。砂漠がある。いわゆる天変地異がいつ起るか分らない。そういう状態は、すべて、闇の力が働いているからです。
なぜこういう状態になっているかといいますと、物理的に存在することは、弁証法的に変化する原則をもっているからです。マルクスやヘーゲルは、一つの定義、定則を説明しているだけなのです。
死ぬにきまっている人間は、未完成の人間なのです。地球自身も、未完成です。アメリカやロシアにある一万五千発という核爆弾を、一度に爆発させますと、地球が消滅するのです。人間の力だけでも、地球を消滅することができるのですから、ましてや、大自然の力が本気になって働けば、地球は一瞬のうちに消えてしまいます。
現在の人間は、未完成です。男性も未完成です。本当の男性とは違うのです。だから、現在の人間が、最高の人間だと考えることが、間違っているのです。
ユダヤ人は、現在の人間が、最高の人間だと考えているのです。完全な人間だと考えているのです。人間がこれ以上進歩しないように、ユダヤ人がおさえているのです。これが、欧米文明が根本的に間違っている点です。
欧米文明は、白人が考えた文明とは違います。ユダヤ人が考えた文明に、白人が踊らされているだけなのです。
人間は、お互いに、不信をいだかざるを得ないのです。このことは、人間が未完成であることを、はっきり証明しているのです。こんな政治、経済、法律が、完全なものと言えるのでしょうか。こういう不完全なものを、学問とか常識で、鵜呑みにしようとしているのです。
人間は、現在、進化の途上にあるのです。地球は、進化の途上にあるのです。人間全体、地球全体を、進化させなければならない責任は、人間にあるのです。
これは、イエスという人の生き方を学べば、分るのです。イエスが死を破ったことは、地球が完成するという、明白な証拠を提出したのです。イエスが死を破ったのは、歴史的事実です。宗教とは関係がない事実なのです。
人間が死ななくなってから、2008年にもなるのです。ところが、イエスが死を破ったことが、どうしても人間に分らない。2008年とは何かというと、人間が死ななくなってからの年号なのです。これが分ればいいのです。
ところが、人間は、世間の中に沈んでいる。人間の常識の中に、沈みこんでいる。だから、本当のイエスが、全く見えなくなっているのです。この状態から、離脱しなければならないのです。
般若心経は、人間の常識、知識を、五蘊皆空とはっきり言っているのです。まず、般若心経を、まともに信じる気持ちになることです。そうしなければ、聖書をまともに信じることはできません。
聖書は神の言葉です。神の言葉を信じる前に、人間の霊魂が、神の言葉を理解するような能力性を、培養しなければならないのであって、今までの人間の常識から解脱することが、どうしても必要なのです。
利害得失の世界、常識の世界から、出てしまうのです。今、一番必要なのは、命の認識です。
目が花を見て、きれいだと思えるのは、霊魂が本当の命を持っていることの、証明になるのです。魂が本当の命をもっていなければ、美しさが分るはずがないのです。
景色を見て、美しいと思う。一体、景色とは何でしょうか。実は、人の命の本体が、景色になって見えているのです。花を見て美しいと思う。同じことが、富士山にも現われているのです。
今の地球は、弁証法的に働いている世界です。そこで、人間の常識、知識を、弁証法的に考えるのです。常識をテーゼだとすれば、イエスの考え方は、アンチテーゼになるのです。この二つを合わせると、たたかって、ジンテーゼになります。これが、人間完成の標準なのです。
イエスが死を破ったことは、肉体的、又、精神的に、最高のジンテーゼになるのです。イエスが復活したことは、弁証法的実体において、人間が完成されることの、歴史的事実なのです。
人間の命は、弁証法的でなければ、存在しないのです。だから、イエスの復活を、アンチテーゼとして、私達の命と、復活の命を二つ並べて、考えるのです。そうすると、私達の命が、今考えている命ではない、もう一つの命であることが分るのです。この命が、この世に生れる前の命であることが分るのです。生れる前の命ですから、死ぬこともないのです。
今の状態では、人間は死ななければなりません。死ねば、基本的人権は、一切通用しないのです。基本的人権は、ユダヤ人の寝言なのです。こういうものを信じていると、必ず死ななければならないのです。死んでしまうことは、業を果たさずに、自分の責任をはっき自覚しないままで、この世を去ることなのです。
現在の人間の、人生観、世界観が間違っているのです。今からの百年程前の日本人は、色即是空、五蘊皆空ということを考えていたのです。『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』ということを、誰でも知っていたのです。
現在では、諸行無常の意味でさえも、本当に分っている人は、非常に少なくなっているのです。しかも、それを理解した上に、生活で実行している人は、めったにいないのです。
諸行無常は、ただの空念仏ではないのです。今生きている人間の、生態的実体なのです。
肉体的生命に捉らわれないで、生きているという事がらを、よく見ればよいのです。生きている状態を、客観的に見るのです。主観的に自分を見ないで、客観的に見るのです。それだけでいいのです。生きている自分から離れて、生かされている自分を見るだけのことなのです。
万徳円満釈迦牟尼如来とか、イエス・キリスト様というから、分らなくなってしまうのです。人の命の中に、釈迦牟尼如来も、イエス・キリストも、全部入っているのです。これをつかまえたらいいのです。
人間は、死なない命をつかまえる資格も、権利もあるのです。理性や良心は、死なない命を受けとる充分の力を持っているのです。
花を見ればきれいだと、いうことが、分るのですから、その分り方をよく理解すれば、イエスが死を破ったという事実を、自分の事実に置き換えてしまうことは、充分にできるのです。
その前に釈迦が言った、人間が生きていることが空だということを、つかまえなければいけないのです。生きていることは、空なのです。空でない人生とは、イエスが死を破ったというかっこうで、すでに現われているのです。
空である命と、空でない命を、しわけして見ることさえできれば、誰でもイエスが持っていた命と同じ命をつかまえることができるのです。
 

 

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