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先天性と後天性


死ななければならないことが分かっていながら、死ぬべき命をそのまま生きておいでになる。死にたくないと思いながら、死なねばならないという気持ちに屈服している。死にたくないという頑固な気持ちを、持ち続けるのです。死ねば必ず霊魂の審判を受けるに決まっているからです。だから、霊魂が死なない方法を見つけなければいけないのです。
人間の霊魂は、すばらしい叡智を持っているのであって、理性と良心が皆様の人格の基礎です。
皆様はおいしい、美しいという形で、命の本質を味わっておいでになります。命の本質を味わっていながら、それを極めて部分的にしか受け取っていません。おいしい、美しいということが、福音、良き訪れの本質です。これがキリストです。なぜ人間は死にたくないと思うのか。おいしいものが食べられなくなるからです。美しいものが見えなくなるからです。
楽しいとか、美しいとかいう気持ちがそのまま永遠の命の本質です。それができなくなることが、死ぬことです。だから死ぬのが嫌なのです。
死ぬに決まっているというばかばかしい命を、乗り越えるために、皆様はお生まれになったのですから、死ななければならないような生き方を、やめればいいのです。そういう、素朴な、率直なお考えをはっきりお持ちになれば、神は大いに助けてくれるでしょう。おいしいものを食べて、おいしいと感じることが永遠の命ですから、この命の喜びをもっと精神的に、理性的に、良心的にはっきり捉えるのです。
イエスが死を破ったことを素朴に勉強すれば、誰でも分かるのです。イエスがどうして死を破ったのか、聖書を勉強すれば誰でも分かるのです。
肉体的に存在する人間は、本質的に存在するものではありません。私たちの魂は、現世で肉体に宿るという形をとらされているだけです。
肉体の状態は、魂の本質ではありません。肉体的な条件を与えられなければ、魚がおいしいことが分からないからです。花が美しいことも分かりません。女性がすばらしいことも分からないのです。こういう経験をするために、肉体的に少しの間、地上に現われただけなのです。やがて、地上から消えるのです。
肉体が命ではありません。皆様の命の本体である魂は、生まれる前にあったのです。魂は永遠から永遠へ継続しているのです。現世に肉体的な条件で、ちょっと顔を出しているだけです。
皆様の魂は、神と同じ本質を持っています。全知全能の神と、同じ本質を持っているのです。聖書に、神は神の形のように人を造ったとあるとおりです(創世記1・26)。これが簡単に死ぬはずがない。死なないのです。だから恐ろしい霊魂の裁きがあるのです。
現世に肉体を持っている間は、ほんのしばらくの期間です。これを基礎にして人生を考えたら、全く間違ってしまいます。霊魂の本質に基づいて、見なければならないのです。 もう一つ重要なことを申し上げておきますが、旧約聖書の創世記に神が万物を造ったと述べています。ここが難しいのです。
実は神が万物を造ったのではありません。神が口を開いて譬を語っているだけです(マタイによる福音書(13・35)。真実を教えるために、非常に不完全な物理現象を、一時的に現わしているだけです。神が天地万物を造ったというキリスト教の考えが、根本から間違っているのです。
例えばリンゴの味があります。これは地球ができる前からあった味です。これを人間に味わせるために、リンゴという形を与えた。しかし、リンゴという形態は本質ではありませせん。リンゴの味が本質です。形態は時間が経てば腐ってくるのです。
このことを、般若心経では、色(リンゴの形態)は即是空(実体ではない)と言っている。空(リンゴの味)は即是色(リンゴの形によって示されている)と喝破しているのです。
地震がある地球を、神が造るはずがない。バイキンがいる地球を、なぜ神が造らなければならないかということです。病気や台風がある地球は、仮のものに決まっているのです。
天地創造は仮の創造です。これをはっきり見破った者だけが、本当のものを見つけることができるのです。
『神は産みたまえる一人子を与えるほどに、この世を愛した』と聖書にあります(ヨハネによる福音書3・16)。これが分からないのです。神がこの世を愛するとはどういうことなのか。これを答えられる牧師は、一人もいないでしょう。これはヨハネによる福音書の三章十六節にある有名な言葉です。一章には、『すべてのものは神の言によってできた。この言に命がある。この命は人の光であった』とあります。この光が皆様の中にあるのです。
皆様の人格の本質は、言です。人格の本質が命になって現われていますが、それに光があると言っているのです。
皆様が生まれる前に、皆様が経験していたすばらしいものがある。それを皆様は、今生きておいでになるのです。
生まれたばかりの赤ちゃんは、五官の本質を持っているのです。生まれながらにして持っているというのは、先天性です。そういうものを持っていながら、常識的に後天性で生活しておいでになる。そこに皆様の霊魂が、裁かれなければならない原因があるのです。これが罪、答です。
イエスはこれを贖うために、やってきたのです。イエスは先天性でやってきたのです。イエスは、『私が元いた所に戻るなら、おまえたちは何と言うか』と言っているのです。『私は上から生まれたが、おまえたちは下から生まれたのだ。私とおまえたちは、出性が違う』とイエスは何回もユダヤ人に言っているのです。
イエスが上と言ったのは、先天性のことです。これが人間の本質だと言っているのです。人間が生きているのは、後天性です。生まれてきた本質は、先天性でありながら、生活のあり方は後天性になっている。そこで人間の霊魂は、罪と咎によって苦しまなければならないような状態に、追い詰められているのです。
神がこの世を愛したとは、どういう世なのか。これは大自然のことを言っているのです。人間が客観的に生きているのは、自然現象です。人間が生きている自然現象と、生活している意識とは違います。
人間が生きている自然現象は、先天性です。だから、富士山を見てすばらしいと思うのです。花を見てきれいだと思うのです。ところが人間は、現世の後天性の意識で生きている。だから、四苦八苦が絶えないのです。そこで後天性をやめて、先天性に気づくなら、イエスと同じ意識になるのです。
神がこの世を愛したというのは、天然が自然になっている自然現象のことです。人間が造っている世と、自然現象の世と二つあるのです。人間が造っている世のプリンスが、悪魔です。この世は悪魔が王となっているのです。神が造っているのは、自然現象としての世です。自然現象の世と、政治、経済の世と二つあるのです。
政治、経済の世は、必ず潰れます。神によって強引に潰されるでしょう。しかし、自然現象が潰れるのではありません。国が滅びても、山河はあるのです。日本は戦争に負けましたけれど、それによって富士山が滅んだ訳でないのです。
人間の世が滅んでも、大自然の世はびくともしません。神は大自然の世を愛しているのです。だから、この世に生きている人間は、先天的な世、即ち創世に目をつけるべきです。そうすると、イエスの意見と一致するのです。そして一人子であるイエスを受取ることができるのです。固有名詞がなくなって、一人子であるイエスが、主体性になるのです。これが本当の主体性の確立です。
ビリピ人への手紙二章の三節から五節にありますが、彼はキリストとしてこの世に下った。この世に下って、罪人の形をとっていたが、罪人ではなかった。これが女の末です。イエスは私たちと同じ肉体を持っていたので、同じ肉体意識を持っていたことは、確かです。しかし、原罪的な形で持っていたのではなかった。先天的な霊的本質のままで、肉体的な生活を経験した。肉体的な生活を経験していたけれど、肉性の虜になっていたのではないのです。
神は宇宙計画を成就するために、キリストが生みたまえる一人子の本質で、この地上に来た。イエスは、人間と同じ感覚を持たされてはいたが、罪人ではなかった。これが女の末であって、男の影響を受けないで生まれたのです。
人の子と人間とは違います。イエスは肉体持ってこの世に来たけれど、肉の思いに負けたのではない。天から下ったけれど、天における生活を持ったままで、生活していた。従って、イエスは私たちのように罪人ではなかった。しかし、肉体を持っていたので、肉の性質をよく知っていた。肉体を持っていたけれど、肉の思いに囚われていなかった。そこで、肉の思いに自由に勝つことができたのです。
悪魔はこのイエスをつかまえて、十字架につけて殺してしまった。イエスの肉体が否定された時に、あらゆる人間の肉の思いと、悪魔自身も否疋されたのです。これが十字架の秘密です。従って、イエスの十字架以後の人間は、全部新しい人、イエスと同じ人格になっているのです。この神の処置を黙って受け取ればいいのです。


 

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