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典型

 

今まで、文明という形で、人間が生活を始めてから、約六千年もたっていながら、いまだに人間はどうしていいのか分らないのです。何のために人間は生きているのか、六千年も経験していながら、分らないのです。だから、文明を信じたら、だめなのです。
人間存在に、典型があるのです。典型とは模範的なもの、代表的なもの、基本的なものという、三つの条件をかねているものなのです。基本的条件と、模範的条件と、代表的条件です。この三つを備えているものを、典型というのです。
典型は人間歴史の中で、一つしかないのです。典型が、三つも四つもあったら、おかしいのです。人間の典型がイエスです。イエスは人間の基本的、代表的、模範的な典型で、この人が死を破ったのです。だからイエスを正しく学べば、誰でも死を破れるのです。
健康とはなにか。単なる生理機能だけを見ていてもだめなのです。健康体の人が、ころっと死んでしまうのです。これは死が分らないからです。専門学とは、そういうものなのです。
人間は、専門的に生きているのではない。全体的に生きているのです。全体的に命を捉えることができなければ、いくら病気を治してもだめです。結局死なねばならないのです。
命をはっきり捉えることになりますと、死んでもかまわないのです。生きている状態のままで、死なない命を経験できるのです。
般若心経に、般若ハラミタとあります。これは、向こう岸へ行く知恵ということです。この知恵が分れば、現在生きている命ではない、向こうの岸の命が分かるのです。
実は、人間が肉体を持っているその気持ちが、嘘なのです。肉体があるのではない。血液の循環があるだけなのです。呼吸機能があるだけなのです。鼻から息を出し入れしていることが、命の生理現象なのです。このことがらの意味が分れば、命の本物が分るのです。 命の本物が分ればいいのです。命が神なのです。命の本体を悟ることを、仏というのです。仏も神も、一つなのです。
人間は、今までの自分の経験、すききらいをやめて、素直な気持ちになれば、仏になれるのです。仏になれば、神がすぐ分るのです。
仏というのは、人間が悟りを開いた最高の状態をいうのです。成仏といいます。人間が成仏すると、神の本物が分るのです。
仏という言い方は、人間の側から見たいい方です。神というのは、命から見た言い方なのです。
人間は、この世に生れてきて、物心がついたその命を、命と考えています。これが、世間的な考えなのです。
今皆様が生きている命は、死ぬにきまっている命なのです。この命ではない、もう一つ別の命があるのです。これは、イエスが死を破って復活した命なのです。死を破った命なのです。
今の人間の命は、死ぬにきまっている命なのです。それとは違う、もう一つの命があるのです。
イエスが死を破ったという命です。この命を、天はただで提供しているのです。
山の姿に、おのずから死なない命が現われているのです。花がきれいに見えます。きれいというのは、死なない命の色なのです。おいしいというのは、死なない命の味なのです。
ご飯を口に入れてかんでいますと、非常に甘い味がします。ご飯の味は、地球の命の味なのです。
地球の命の味が、ご飯になって、舌にアピールしてくるのです。ご飯の味は、地球の命ですから、地球の命は、死なない命にきまっているのです。それを、舌は味わうことができるのです。
そのように、五官の働きは、生れる前からの、命の働きです。生れる前の命とは、死なないのです。生れる前の命の味が、舌に感じられるのです。目にあるのです。耳にあるのです。五官の働きは、死なない命の働きなのです。
だから、人間は、ご飯を食べたり、物を見たりして、きれいとか、おいしいとか、すばらしいと思うのです。それが、生れる前の五官の働きなのです。
生れる前の五官の感覚は、死なない命の感覚なのです。それが、現在、人の中にあるのです。それが、肉体的な命になって、生活しているのです。
この世に生れてから今日まで持っている、妄念、考え方が間違っているのです。親が教えたことも、まちがいです。学校で習ったことも間違いです。学校で習ったことは、この世の生活には役立ちます。生命には、全然役に立たないのです。
典型とは、イエスが死を破ったことです。イエスとは、最も現実的な意味で、小便をするイエスなのです。いわゆるキリスト教で言う、イエス・キリスト様とは違うのです。こんなことは、キリスト教では、恐れ多くて言えないのです。
キリスト教のイエス・キリストは、金縁の額に入れて、飾っているのです。このキリストは、宗教のキリストです。聖書のイエスは、大工の青年なのです。この人が、典型なのです。
このイエスが、たった一人、死を破ったのです。文明は、死んでしまった人間のことばかりを言っている。親鸞も、法然も、弘法も、日蓮も、孔子も、老子も、東洋人も西洋人も、全部死んでしまったのです。
釈尊も死んでいます。死んでしまったから、仏舎利があるのです。名古屋の覚王山の寺に、釈尊の骨があるといっていますが、骨があるというのは、死んだということなのです。
歴史的事実において、死を破ったもの、死をのりこえた者は、イエス一人だけなのです。死をのりこえたことが、唯一無二の典型になるのです。この人の勉強をしなかったらだめです。イエスの他に、死を破った人は、一人もいないからです。
イエスこそが、本当に信用できる人なのです。死をのりこえたことは、人間のあらゆる間違いをのりこえたことなのです。
イエスを本当に勉強しょうと思うと、常識を持ったままではだめです。自分の常識をのりこえるのです。常識は捨てなくてもいい。のりこえたらいいのです。
常識をのりこえるとは、自分自身が復活することです。これを甦りといいます。私は、よみがえりであり、命であるとイエスは言っていますが、これは、十字架にかかる前に言っているのです。つまり、自分自身の常識をのりこえてしまわなければ、イエスという人間をつかまえることはできないのです。
そのためには、まず、五蘊皆空を実行しなければならない。キリスト教で、いくら
聖書を勉強しても、だめなのです。釈尊は、現世に生きている人間の命は、空だといいました。なぜかといいますと、人間の生き方がまちがっているからです。
実は、釈尊も、イエスという典型をねらっていたのです。イエスが生きていた生き方をじっと見ると、その方法が分かってくるのです。それ以外に、死なない命を得る方法はないのです。

 

 

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