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我執を捨てる


宗教は、人間に一応の導きを与えるために、神が許したものです。現世に生きている人間には、宗教的な文化意識を経なければ、神にとりつくことはできないのです。
学理学説でも、そう言えます。現在の人間の文化、文明は、肉体を持っている人間を認めている両親が、赤ん坊を育てると同じように、あんよはじょうず、ころぶはおへたと、神が人間の霊魂を育てているのです。これが、宗教なのです。
動物的に存在する人間を、神的な人間に引き上げるためには、一応動物的な道程をたどらなければならないのです。
肉体人間は、仏教的に言いますと、胎臓の世界にいるのです。有形の地球は、母親の体内、母体の中なのです。
人間は物質があると考えています。神は人間に、ありもしないものを、あるように認めさせているが、これはなぜかといいますと、二歳、三歳の時から、理論物理学の説明をしても、分からないということです。高等学校から大学へ入学してから、理論物理の話しが分かるように、神もそのように考えているのです。
人間の教育過程は、神のまねをしているのです。人間の教育は、根本的に間違っています。なぜ間違っているかといいますと、人間の教育は、生活することを教育しているだけであって、命のこと、生命のことを、全然教えていないのです。これが間違っているのです。
しかし、まず生活のことを勉強しなければ、命のことは分からないのです。そこで神は、人間に、生活のことを勉強することを、許しているのです。これが、人間社会の胎臓の状態です。
物質が存在すると考えている人間は、まだ母の胎内にいるのです。神の体内にいるのです。時間、空間の世界は、神の胎内です。神の母体です。全地は、命の母なのです。地球は命の母であって、命の胎内に、うろうろしているのです。
業(ごう)を果たすにはどうしたらよいか。人間が地球上に生きていることは、本当の命ではない。仮の命だということに気がついて、本当の命を受けとめるために、肉の世界、仮の命を出てしまわなければならないのです。
五蘊皆空を実行しなければならないことに気がつくと、人間は仏になるのです。この世に生きていることが空であることが分かりますと、人間は成仏するのです。成仏しても、まだ神が分かったことにはならないのです。
仏になることは、すべての我執をすてることなのです。我執、我欲をすてることが、仏になることなのです。
仏というのは、人間の思想が、こんがらがっているのを、ほどくことなのです。「仏とは誰が言いにけん玉の緒の、糸のもつれのほとけなりけり」という歌があります。ああ、人生は、生きていても何もならない。生きていることは、一つの経験にすぎない。本当の命ではないということが分かるのです。そうすると、人は仏になるのです。
そうすると、初めて、神を信じようという気持ちになるのです。まず、仏にならなければ、神を信じることはできないのです。キリスト教の人々は、仏にならない状態で、聖書を読んでいるのです。だから、いくら聖書を読んでも、神が分からないのです。
仏になると、本当の神に面会できるのです。
目が見えること、耳が聞こえること、おいしいという味が分かることが、神だということが分かるのです。
生きていることが神なのです。まともに神を信じることができる精神状態を、仏というのです。
まず、解脱することです。常識で生きる、学問で生きることが、間違っているのです。学問とか常識は、死んでいく人間がつくつたものです。
私達は、神に面会できるまで、神の実物が分かるまで、自分の気持ちをすてることです。命はいつなくなるか分からないのですから、一日も早く、本当のことを知りたいという熱意をもつのです。
今生きているのは、仮の命であって、本当の命ではないのです。これを解脱して、始めて、生きている事がらの実体が分かるのです。実体が分からずに生きているのは、仮の命で生きているからです。
本当の命の実体が分かりますと、おいしいとはどういうことか、美しい、楽しい、うれしいとはどういうことかが、分かるのです。これが命であって、しいの世界のことを、魂というのです。しいというのは、魂の動詞なのです。霊魂の働きの、動詞なのです。
人間が生きている状態を見ますと、しいの世界の他には、生きていないのです。ところが、このしいということが分かっていないのです。だから、死んでしまうのです。
本当の命が分かる人、本当の神をつかまえることができる人は、めったにいないのです。この、めったにいない人の中の一人になりたいと思うのです。そう考える人は、そうなれるでしょう。志をたてる事が、その人の命になるからです。やろうと考えるのです。
人間を解脱して、神をつかまえることは、本当に難しいことです。しかし、これ以外の方法では、業を果たすことができないのです。死を突破することはできないのです。
死を破るためには、それだけの犠牲を払わなければならないのです。犠牲とは、自分の考えを捨てるということです。どんな難関を突破してでも、万障をくりあわせて、命をつかまえたいと考えるのです。
 

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