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絶対とは何か


カントは神という言葉を使っていますが、神の実体の説明をしていません。カントは宗教家ではありませんでしたし、神についてそれほど詳しく勉強していなかったようです。哲学の論理としては、非常に広範で綿密な展開していますけれど、命をよく知らなかったのです。
絶対とは何か。これを知ることは難しくないのです。命があることが絶対です。生(せい)というのは、死なない命をさすのです。命(めい)人間が生きている死ぬべき命です。
生が命になって現われているのです。命の本質を突きつめていきますと、生が分かるようにできているのです。
例えば、砂糖をなめて甘いと思います。なぜ甘いと思えるのでしょうか。砂糖の味は精糖会社がつけたものではありません。砂糖の味は天然の味です。天然とはどういうことでしょうか。おのずからであって絶対と言うしかないのです。
私たちは天然という事実を認めない訳にはいきません。花は天然に咲いています。天然の命が花として現われている。天然として現われているものが絶対です。これは神と言ってもいいですし、宇宙人格と言ってもいいのです。神に様をつける必要はありません。神は神です。絶対です。
私たちがどうすることもできないこと、例えば赤いものが赤いこと、五官の本性が絶対です。五官は絶対からきたものです。人間の命には格があります。動物の命や植物の命とは違います。人間には格があります。命格と言ってもいいのですが、人間だけしかない格ですから、人格と言わなければならないのです。人柄と言ってもいいでしょう。
命には格があります。命があるという事実、地球があること、命があること、あるということが絶対です。聖書に『私は有りて有る者』とありますが、このあることが神です。太陽系の地球があると言えるものは神だけです。カントはこのあるが分からなかったのです。物があることは分かっているが、物があることの本質、なぜ物があるかが分からないというのが、カントの意見でした。生の本体があるであり、あるということが絶対です。
神の本質は神格です。人間には人格があります。これは同じものです。神が造った砂糖の味を人間が味わっているのですから、人間の人格性は神が分かるはずです。神が造ったものを人間は確認できます。死なない命が分かって当然です。三位一体の神のペルソナと、人間の人格は本質的に同じものです。だから怖いのです。
皆様は神と同じものを持っていらっしゃるのです。これはすばらしいものです。天地の存在を認識することができる。万物を見分けることができる。これはすばらしい命の働きです。
これを命の格式として持っていらっしゃるのです。だから世間の常識にとらわれないで、ご自分の生活の実体をよくご覧になれば、命の実体が分かるはずです。
皆様が生きておいでになるということは、実は自分が生きているのではなくて、神が私という格好で生きているのです。これが分かれば死ぬはずがないのです。
皆様の五官の働きは、神の認識と同じものです。だから、天地の造り主である神が造ったものを、皆様は目で見ることができるのです。これさえ分かれば死なない命が分かるのです。
世間の常識、学問、現世の人間の考え方が間違っているのです。五官の本当の働きは、宇宙的に言えば神と同じものです。そういうものを持っていながら自分が生きていると思っている。これが悪いのです。
人格を自分のものだと考えることは、神の天性を人間が横取りしていることになります。これは恐ろしいことです。それを皆様の人格はよく知っています。だから死にたくないと思うのです。このままの状態で死んでしまえば、命がどうなるかを、皆様の本心は、よく知っているのです。だから死にたくないのです。死が恐いのです。
人格という言葉が難しければ人柄と言ってもいいのです。自分が生きている柄、生きている状態の本当のあり方を見極めさえすれば、死なないのです。
私たちが生きていることが、あることです。人間があるのです。これが神です。これさえ分かれば死なないのです。 
これを見つけることが命の本当の目的です。この世で生活することが目的ではありません。生活だけしていてもしかたがないのです。死んでしまうに決まっているからです。死んでしまうに決まっている命を持ちながら、死なない命を見つけることが、人生の目的です。
 

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