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死に勝つ生き方


死に勝つためには何をしたらいいかと言いますと、何もしなくてもいいのです。どのように物を考えればよいかというだけのことです。
死とは何か。肉の思いが死です(ローマ人への手紙8草6節)。現世で生きている人間の常識が、肉の思いなのです。なぜ、肉の思いかといいますと、人間の常識は、死んだ人間の言い残したこと、又死んでいくに決まっている人が、考えていたことにきまっているからです。
人間の常識は、死んだ人間が考えたことの集積なのです。現世の文明、文化は、亡者の繰り言ばかりなのです。死んだ人間の情報でない文化論は、一つもないのです。私が、人間の文明がまちがっていると言う理由はここにあるのです。
道元禅師の正法眼蔵に、『生を明らめ死を明らめるは、仏家一大事の因縁なり』という言葉があります。この言葉を、よく考えてみる必要があります。
因縁とは、そうなるにきまっていること、又、そうであるにきまっていることなのです。
生を明らめるとは、明らかにすることなのです。生きていることが何であるのか。死が何であるのか。これを、明らかにすることが、人間の一大事、困縁であるというのです。
実は、道元禅師は、永遠の生命の実体を日本に提供した人ではないのです。道元は、すばらしい逸材でした。都では、宗教観念がクモのように集っていて、本当のことを聞く人はない。本当のことを言う気にもなれないので、田舎の山にたてこもって、一戸、半戸を説得すると言っているのです。彼は、いわゆる宗教家ではなかったようです。
この道元禅師が、言っているのです。人間一大事の因縁とは、生とは何であるかを明らかにすること。つまり、何のために生きているのかを、明らかにすることだといっているのです。
因縁とは、人間がしなければならないことをさしているのです。この世で生活することよりも、家族のことを考えるよりも、もっと大きい基本的な問題は、生を明らかにすること、死を明らかにすることだといっているのです。
ところが、人間の常識は、この世で生活することを、第一義にしています。これが、根本から間違っているのです。肉の思いは、現世で、人間が肉体的に生きているという考え方が基礎になってできている生活の概念です。ところが、人間が肉体的に生きているのは、限られた時間だけなのです。こんなことは分かっているのです。分かっているが、信じていないのです。これが、現代人の悪いくせなのです。
道元禅師の正法眼蔵を読んでいる人は、たくさんいます。生を明らめ、死を明らめるは、仏家一大事の因縁なりと、お経のように読んでいるのです。しかし、仏家一大事の因縁なりという意味が、分らないのです。分っても、それを真実として考えないのです。こういう人が、日本にはたくさんいるのです。
般若心経もその通りです。五蘊皆空を、いやというほど言っています。色即是空という考えは、ちょっと文学的な素養のある人なら、誰でも知っているでしょう。ところが、色即是空という言葉のもつ意味が分らない。又その意味が、少し分ったとしても、その人の心に定着していないのです。定着していないのは、信じていないからです。信じないなら、
始めから、色即是空と言わなければいいのです。ところが、日本人は言うのです。言いながら、信じようとしないのです。これはまるで、般若心経を嘲弄していることになるのです。嘲弄するくらいなら読まない方がいいのですが、これは、日本社会の困ったことなのです。
肉の思いは死であるという言葉でも、キリスト教の人々は皆知っています。知っていますが、信じていないのです。それは、まるで、聖書を嘲弄しているのです。神をバカにしてるのです。こういうことを、キリスト教や仏教がしているのです。
宗教は、実にけしからん事をしているのです。宗教の語法は正しいことを言っているのですが、理解はしていないのです。理解はしても、信じてはいない。信じていても、行っていないのです。
とにかく、今の人間は困ったものです。死を、まともに考えようとしていないのです。肉の思いが死であるという重大なことでさえも、見過しにすることが、世間の常識になっているのです。
だから、宗教は人間の魂を滅ぼしてしまうものなのです。これは、泥棒よりも、もっと悪いのです。泥棒は金を盗むだけですが、宗教は魂を盗むのです。これは、ひどいのです。
金を盗むことは悪いが、魂を盗むことは、もっと悪いのです。現代の日本社会の欠陥が、ここにはっきり現われているのです。
死をのりこえるためには、どうするか。肉の思いが死であることを、のりこえるにはどうするか。これはどう思うかということなのです。
まず考えなければならないことは、人間は、現世に生きるために生まれてきたのではないということです。人間はこの世で生活するために生まれてきたのではないということを、新約聖書も、大乗仏教の中心思想も、明らかに指摘しているのです。般若心経は、その端的な一例です。
人間が、現世で生活していても、しかたがないのです。なぜかといいますと、人間は必ず死ぬにきまっているからです。どんなにお金をもうけても、地位や名誉を獲得しても、やがてこの世を去るのです。七十年、八十年生きていて、人間の本質について、何が分ったのでしょうか。生を明らめ、死を明らめることができたのかということです。
新約聖書の思想で言いますと、人間は、現世へ、神を学ぶため、命を学ぶためにきたといっているのです。こういう言葉そのものはないのですが、新約聖書全体に、そういう思想が流れているのです。現世に生きるのではなくて、永遠に生きるのが、新約聖書の目標です。
現世に生きていることは、肉体的に生きていることですが、肉体的に生きていることは、不確実な、不明瞭な、あるいは不明朗なことなのです。もやもやした状態で、何となくこの世で生きているだけのことなのです。
例えば、テレビで中継されている国会座談会が、現世の縮図みたいなものです。それぞれの党が、党利党略によって、戦術をねったり、理屈を並べたりしているのです。
個人の生活でも、社会の中でも、学校の中でも、必ず孤立があります。サラ金で金を借りて、首をつるという悲劇が、必ず起きるのです。日本は、そういう社会なのです。こういう社会に生きていることに、どういう意味があるかということです。
私達は、生活するために生まれてきたのではなくて、命の本質を学ぶために生れてきたのです。
人間が本当の人間であるためには、現世を越えなければならないのです。釈尊が、五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃という言い方をしていますのは、現世に生きることではなくて、永遠に生きることであることを、端的に指摘しているのです。
六十年、七十年生きてきて、命についての本質は、何も分かっていない。ただ生活をしていただけなのです。結婚をして、家庭をもって、子供を産んで、育ててきた。これが、永遠から見て何になるのかということです。日本社会を繁栄に導いてきた。これが、永遠から見てどういう意味を持つのかということです。
現在の文明に、理想があるのでしょうか。残念ながらないのです。学問に、はっきりした目的がないのです。現在の社会を良くするとか、人間の生活を便利にするとか、経済を豊かにするという目的があります。これは、生活に関する目的なのです。生命に関する目的ではないのです。
文明は、生活は考えるけれど、生命は一切考えないのです。誤った一部のユダヤ人の世界観によって、こういう文明がつくられているのです。
ユダヤ人の考えは、徹頭徹尾肉の思いであって、肉体的に生きている人間が、人間だと考えている。この考えを、全世界へばらまいているのです。これが、ユダヤ人の世界観なのです。
ユダヤ人が悪いのではなくて、ユダヤ人の世界観が悪いのです。これが世界全体を毒していて、文明そのものに理想を持たせないような方向へひっぱっていっているのです。ユダヤ人のメシヤ思想が、それです。マルクスの革命論は、そういう所を目標にしているのです。自由の王国がそれなのです。
一大事の因縁とは、なさねばならないこと、やらねばならないことを意味しているのです。人間は、家庭をつくるために生れたのではないのです。家庭も必要です。子女の教育も必要です。さらに必要なのは、自分が生きていることの本質をわきまえることなのです。
日本の社会には、命をわきまえるための勉強が、全然ないのです。生活はありますが、命を考える習慣がなくなっているのです。明治以後の日本は、非常に悪くなっているのです。
西欧文明というのは、ユダヤ文明のことです。この感化を受けて、現世主義に転落してしまっているのです。明治までの日本人は、少しは人生のことを考えたのです。後生大事という言葉があったのです。
明治以後には、後生大事がなくなって、現世大事ばかりになってしまったのです。現象生活で、どのように楽しく暮らすかだけを考えているのです。享楽主義的生活意識になってしまっているのです。人間が、現世を享楽できるということが、被造物の人間としての、すばらしい特権なのです。
私達は、自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。だから、現世を楽しむことができるのは、それだけ、非常に重大な責任があるということなのです。
今の地球は、未完成の地球であって、人間も未完成です。人間が生きている社会が、最高のものではないのです。地震が起きるとか、砂漠があるとかいうのは、未完成の地球を示しているのです。
地球という物体は、生きているのです。生きているものには、目的があるにきまっているのです。地球には、地球完成という、物理的な大目的があるのです。人間も又、人間完成という大目的があるのです。これは、現世に生きることではありません。命を心得へ、命の本質に従って、生を明らめること、死を明らめることなのです。
そのような、大きい考えを持つことが、肉の思いが死であるという状態から離脱するための、第一の原則なのです。現実に生きていることを第一に考えないで、人間完成、地球完成ということを、考えなければならないのです。
仏教では、草木国土悉皆成仏といいますが、聖書は、もっとはっきりした言い方で、神の約束の完成といっています。そのように、地球には、言葉では言えないような壮厳な目的があるのです。現在生きている人間が、とても、考えられないような、すばらしい理想があり、目的があります。これを神の約束といっています。
そのために、人間が存在するのであって、現世で生活するために生きているのではないのです。こういう考え方で生きることが、死に勝つ生き方なのです。
 

 

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