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命は借り物

 

私達がこの世に生れてきたことは、生れるだけの理由、因縁があったからなのです。生れてきたというのは、過去から現在にきたのです。死んでいくというのは、現在から未来へ行くのです。
人間の命は、過去と現在と未来の全体の本質を言うのです。個々の人間の経験としていえば、魂といえるのです。
魂がこの世に来るには、理由があるにきまっているのです。そこで、現世にいる間に、命の全体を知ることができた人は、業が果てるのです。
人間はこの世に生活するために生れてきたのではなくて、業を果たすために生れてきたのです。商売をするとか、会社へ行くとか、家庭を持つとか、色々の形がありますが、それは業を果たすための方法なのです。
生命は魂のあり方の実質です。これがお分かりになれば、現在までの皆様の生き方ではない、もう一つの生き方が分かってくるのです。生きていることの中に、目に見える面と、目に見えない面と、二つの命があります。肉体的な命と、霊的な命と、二つの命があるのです。肉体的な命がある間に、霊の命をつかまえるのです。
現在のような考え方では、日本人は全部死んでしまいます。常識を信じているからです。
命は借り物です。命が借り物だということは、命を貸した人がいるのです。その人をつかまえればいいのです。それを神と言うとすれば、その神をつかまえれば、借りた命がもらえるのです。命をもらってしまえば、死なないことになるのです。
借りたままの状態で放っておきますと、現世を去る時に、命を返さなければならないのです。そこで困るのです。
命は自分のものではありません。天のものです。天が分かれば、命の本源が分かるのですから、天と自分が、よく話し合えば、永遠の命を与えられることは、充分にできるのです。常識にこだわらないで、心を開いてお考えになれば、あなたご自身の命の根本が、ひっくりかえるのです。
人間は死なない命を自覚しなければならない責任があるのです。今のままでは、日本人は全部、死んでしまいます。死んでもかまわない、赤信号皆で渡れば怖くないという気持ちがありますが、これは非常に無責任な、霊魂のさばきを知らない人が言うことです。
自我意識は、自分だけしか通用しないものです。人間の精神生活は個々別々であって、一人ひとりが自分の部屋に閉じこもっているのです。いわば刑務所の独房のようなものです。一人ひとりが孤立しているのです。
人間は皆孤独です。孤独であることが、霊魂が審かれるための前提条件なのです。
神と仏の関係を簡単に言っておきますと、仏というのは、自分自身の人生がほとけること、ほどけることです。人間が何のために生きているのか分からない。死んだらどうなるか分からないことを、ほどくのです。これが仏です。仏とは、人間が生きている姿を、はっきり認識することです。五蘊皆空、色即是空が、仏の入門なのです。
本物の神は、日本の八百万の神ではありません。皆様の命の本店、天が神です。皆様は天の意志によって生れてきたのでありますし、天の意志によって命を預かっているのですから、天が分かれば死ななくなるのです。
中国では、神を、上帝とか、天帝といいます。聖書の神はどうも日本人には分かりにくいのです。日本の神は、人間が造った神です。ところが聖書の神は人間を造った神です。
人間を造った神は、人間の命の本質そのものの中心です。例えば、太陽が輝いている事柄の原理、地球がなぜ存在するか、人間がなぜ存在するか。その原理が神なのです。
皆様の心臓が動いていることが神です。目が見えることが神です。皆様は神と一緒に生きておいでになりますが、その神が分かっていない。だから死んでしまうのです。
神が分かりますと、孤独である状態から解放されます。自我意識によって、自分の部屋に閉じこもっている状態から解放されて、神と一緒に生きることができるのです。
天と人が、二人づれで生きるのです。生きていることが神なのですから、それを素直に認めればいいのです。心臓が動いていることが神なのですから、それにはっきり気がつけばいいのです。それに気がつこうと思えば、今までの常識を棚に上げる勇気がいるのです。
今のままの気持ちでは、神は分かりません。仏になっていないからです。神が本当に信じられる心理状態が、仏なのです。仏を仏のように扱うことが、神です。
常識で生きていれば、必ず死にます。死んでから、ひどいことになります。だから生きているうちに、死なない命を見つけなければならないのです。
現代文明に流れている基本原理は、即物主義、唯物主義です。即物主義とは、現象が実体であるという考え方なのです。目で見ているとうりのものがあると考えるのです。これがヨーロッパ人の思想です。現代の日本人も皆こうなっています。
これを、般若心経では色蘊といっています。五蘊皆空の蘊という字ですが、蘊とは人間の中にある迷いのようなものです。色蘊とは、物質が本当に存在するという思想です。
色蘊が現代文明の基礎になっています。これが即物主義なのです。物に即してすべてを考える。生活でも、生命でも、すべてを物に即して考える。これが近代文明の特徴です。
ところが、これが間違っているというのが、般若心経の見解なのです。これが釈尊の根本精神なのです。
空というのは釈尊の非常に優れた思想です。人間が、現在肉体的に生きているという考えは、間違っているといっているのです。
そのとおりです。人間は命で生きているのであって、肉体で生きているのではない。ところが、現代の医学は、人間の命は生理的なものだといっているのです。例えば、心臓が止まることが死である。脳波が止まることが死であるといっているのです。これは物理的な考えなのです。
命は物理的なものではなくて、霊的なものです。物理的な面もありますが、心理的な面もあるのです。従って、命を正しく知ろうと思えば、生理的な面だけを勉強してもだめなのです。ですから、現代人は生きてはいるけれども、命が分かっていないのです。こういう間違った生活のしかたをしているのです。
これが肉の思いでありまして、その結果、人間は死ななければならないことになるのです。生きていながら命を知らない。これは誠に不合理な話なのです。
皆様方の心臓は神と対話しています。花は咲いていますが、咲いているという現象は、花が神と対話していることなのです。
人間が生きているというのは、花が神と対話しているようなことです。
皆様方の目が花を見て美しいと思うのは、花が神と対話している状態を、美的感覚で捉えて美しいとお感じになるのです。つまり皆様方の目は命を見ているのです。花を見ているのではなく、命を見ているのです。花が神と対話している状態を命というのです。
目は命をつかまえるだけの力を持っているのです。ところが、思いは命を捉えるだけの力を持っていない。これを迷いというのです。無明というものです。
なぜそうなるかといいますと、神が分かっていないからです。本当の霊が分かっていないからです。
私の言う霊というのは、日本の霊ではありません。もっと大きい霊なのです。本当の霊とは、地球が現在動いているそのことなのです。地球を造った霊なのです。人間を造った霊なのです。
皆様方の命を現実に支配している霊です。これが分かれば命が分かるのです。

 

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