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精神を一本化する


人間は絶対に死ななければならないということを知っていながら、絶対に死にたくないと考えています。死にたくないと考えていながら、死ななければならないと考えている。これほどういうことでしょうか。これをよくよく考えて頂きたいので。これは絶対矛盾の自己同一ですが、ここに深い意味があるのです。
死にたくないということを誰でも思っていながら、又、死ななければならないと考えている。これが何を意味するかと言いますと、死ななければならないと考える自分と、死にたくないと念願する自分と、二人の人格が、一人の人間の中に住み込んでいることになるのです。
この人格構造が良く理解できないために、死にたくない、死にたくないと思いながら、みすみす死んでいくことになるのです。
死にたくないと本当に思うなら、死にたくないという人格だけを選択したらいいのです。精神を一本化したらいいのです。非常に簡単なことです。実際にこれを生きて死なないということを証明したのがイエスです。イエスの復活が、見事にこれを実証しているのです。
もし本当に死にたくないのなら、イエスの真似をしたらいいのです。イエスが生きた生き方を、もらってしまえばいいのです。
日本の大乗仏教には、色々な教説がありますけれど、要約して言えば、成仏が集約的な見本になっています。
禅宗では一切空と言います。そう言いながら、本堂には仏像を祭っています。一切空と言うのなら、仏像を拝むのはおかしいのです。何も祭る必要はありません。日本の禅にはこういう所に、もやもやしたものがあるのです。だから日本の禅は本物ではありません。むしろ、他力本願の浄土真宗のようなものの方が、すっきりしているのです。
一向宗の門徒一揆が、日本の戦国時代にありました。徳川家康も、門徒一揆にはさんざんてこずって、閉口しているのです。
門徒という、いわゆる他力本願の考え方は、実は日本の仏教を代表しているような思想です。真言宗も、結局は仏を拝んでいるのです。禅宗も仏も拝んでいるのです。
仏を拝まない仏教は、日本にはありません。仏を拝むというのは、他力本願に通じるのですが、仏を拝むというのがおかしいのです。
念仏を申せば、何とかなると思っている。ところが仏教では、本当の念仏を知らないのです。本当の念仏を知らずに、念仏を唱えている。
成仏ということは、仏になることです。仏になるということは、きれいさっぱり自分がなくなってしまうことなのです。誰でも、お亡くなりになった時の顔は、非常に柔和な顔になっているのです。成仏したような顔になるのです。そうなるに決まっているのです。そうなればいいのです。
皆様でも、お亡くなりになれば、別人のような顔になっているでしょう。死にたくない、死ななければならないと思っている間は、死ななければならない命で生きているからです。だから死にたくないと思うのです。これは矛盾しているようですが、一貫しているのです。
死んでしまうと、その人の命がなくなってしまうのです。般若心経でいう、究竟涅槃になってしまうのです。遠離一切顛倒夢想、究寛涅槃とありますが、こうなってしまうのです。
そうすると、人間が生きているという灯、命の灯が消えてしまいます。これが成仏ですが、そうなってから神を求めてもだめです。
人間のあらゆる意味での思想の本質、生活形態の本質は、円相です。これが活花の原形です。円相の下が死で、上が生です。死ぬことが成仏することです。成仏すれば仏になります。
キリスト教で本当の神が分からないのは、仏が分からないからです。キリスト教の信仰には仏がありません。仏がないから、神が分からないのは、当たり前です。
仏というのは、人間が死んでしまうことで。これをイエスは、己を捨てて、己が十字架を負えと言っているのです。これは仏になれということなのです。
ところが、キリスト教では己を捨てることが分からないのです。むしろ、却って自分が救われたいと思うのです。これが間違っているのです。
浄土真宗も、そのことが言えるのです。他力本願の念仏は、念仏しながら仏になっていないのです。
念仏申すというのは、自分が仏になることを意味するのです。仏にならなかったら、いくら念仏申しても、何にもならないのです。
仏説阿弥陀経を読んでみますと、阿弥陀如来の名号の由来をよく心にとめて、念仏申すなら、臨終の時に仏が迎えに来てくれると言っているのです。
これは本当ですが、譬です。阿弥陀経は宗教です。阿弥陀経の文句は嘘ではありません。嘘ではありませんが、これは抽象的な真実です。抽象的な真実は、嘘ではありませんが、実物ではないのです。抽象概念の真実は、嘘ではありませんが、本物ではないのです。これを、よくご承知して頂きたいのです。
仏典と聖書とどこが違うかと言いますと、聖書は、イエスというご飯を食べた人間がいたのです。鼻から息を出し入れしている人間が、現実にいたのです。小便をしたイエスがいたのです。
阿弥陀如来は抽象人格であって、ご飯を食べていた人格ではないのです。そこで、仏教をいくら勉強しても、抽象概念から出ることはできません。
聖書は実物の人間、現世に生きている人間を問題にしているのです。ところが、現世に生きていたイエスが、神になってしまったのです。死を破って復活したことによって、神になってしまった。そうなると、もう人間は分からないのです。神になったということの実体の説明が、今のキリスト教では全くできないのです。
そこでキリスト教はだめなのです。仏教もだめです。すべて人間が行きつく所は、死です。これ以外に、行く所がないのです。
一切空というのは、命の実体をつかまえたことにはなりません。遠離一切顛倒夢想というのは、成仏したということで、命を掴まえたことにはならないのです。
涅槃とは、人間が消えてしまうことです。人間が消えてしまいますと、成仏するのです。
成仏するというのは、死んでしまうことです。死んでしまったら、命が分かるかと言いますと、分かりません。死んでしまっただけではだめなのです。
生きているうちに、ナムアミダブツと言っていなければだめだと、阿弥陀経は説いているのです。阿弥陀とは、無限という意味です。皆様の脳細胞の中には、無限が入っているのです。皆様の理性は無限を求めている。皆様の良心は無限の善を求めている。理性は無限の真実、絶対の真理を求め、良心は絶対の善を求めているのです。善も真理も同じことなのです。
皆様の理性と良心は、円相の外、彼岸を求めているのです。どんな哲学でも、どんな宗教でも、円相の壁を破ることは絶対にできません。
文明、人間の生活は、円相の中をうろうろしているだけです。これが人生でありまして、生きているうちに死にたくないと願うだけではなくて、死ななくてもすむような方法の一端を掴まえるのです。念仏するというのは、その方法です。
念仏は、人間の本質が、命であり光であること、これは神の言であると言いたいのです。新約聖書ヨハネの福音書の一章一節に、初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言に命があった。そして、この命は人の光であったとあります。つまり、阿弥陀経の本質が書いてあるのです。
世界には本当の真理は一つしかありません。人間の本質は命と光です。これ以外にはありません。人間の常識は、ただ円相の中をぐるぐる回っているだけです。これが人間の思想の状態です。
ところが、皆様が生きておいでになるという事実があります。脳細胞が働いている。脳波が活動しているのです。脳波がストップしてしまえば、心臓が動いていてもだめです。人権は一切通用しないのです。
人間は円相の中を、うろうろしているのです。ところが、皆様には命があります。脳波が働いています。脳波というものは、光の源泉と同じ性質を持っているのです。
脳波は仏教的に言いますと、無量寿如来です。理性の働きが無量光如来です。精神の働きと言ってもいいのです。人間には精神力的な働きと、生理機能の働きと両方があるのです。精神機能がいわゆる光であり、脳波の働きは無量寿如来、光ですが、その原料は神の言葉です。
阿弥陀如来は、人間の本体が命と光であるということが分かった人格を言います。命と光は宇宙の初めから存在する法です。法はダルマですが、ダルマと言は同じものです。ダルマには歴史的な裏づけがありません。言は歴史的に裏づけがあります。ここが違うのです。神の言は歴史があります。宗教の概念には歴史がないのです。そこが違うのです。
言(ことば)が分かると、死なない自分が分かるのです。人間はなぜ死ななければならないのか。常識で生きているからです。常識的に生きている自分を見ずに、客観的に生かされている状態を見ればいいのです。
 

 

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