top of page

死ぬ命と死なない命


命には死ななければならない命と、絶対に死ぬはずがない命と、二つあるのです。皆様はどちらの命に生きているのでしょうか。肉体的に生きていると考えている人は、必ず死なねばならないことになります。これは本当の命ではないからです。
現在、皆様は生きていらっしゃいます。生きていらっしゃるのは、命の経験をしておいでになることですから、命の本物がよく分かっていなければならないはずですが、それが全く分かっていません。それは命の受け止め方が分かっていないからです。
死なねばならない命、死ぬに決まっている命を本当の命だと考えているのが、現代文明です。現代文明の世界観は、肉体的に存在する人間を、人間だと思い込んでいます。これは思い込んでいるというよりも、思い込まされていると言った方がいいのです。これは皆様方の責任ではないかもしれません。
人間は本来の命という見方を見失ってしまって、文明という生活観、世界観を信じてしまっている。命の本当の受け止め方が分からない。自分が生きていると考えているからです。
自分が生きているという事実はありません。命は皆様ご自身の持ち物ではありません。皆様はご自分で、自ら生まれたいと思って生まれたのではありません。又、ご自身の力によって自分の命を保っていくことはできないのです。
例えば、空気がなければ、水がなければ、太陽光線がなければ、命を保っていくことはできません。人間は自分で生まれたものでもないし、自ら存在することでもないのです。従って、自分が生きている、自分の命というものはどこにもないのです。
命はあくまで客観的なものです。主観的な命、自分の命だと言えるものは、どこにも存在していないのです。
これは誰でもすぐに分かることです。こういう単純な、ばかみたいなことを、真面目に考えようしないのです。つまり、自分の命に対する考え方が、自分自身の命の盲点になっているのです。人間は、自我意識、エゴという意識を自分だと考えている。英語にはIとeegoの二つの言い方がありますが、egoを自分と考えているのです。日本語の場合には、自分とか私という言い方が、一つあるだけです。自分というのは、主観的な自分をさすのか、又、生かされている客体性の自分をさすのか、どっちを意味するかということです。
自分の自をおのずからと読む場合と、みずからと読む場合とでは全く意味が違ってくるのです。
みずからとは、自分自身が自我意識を主体としている自分を認識するのです。おのずからと言いますのは、天然自然のあり方に従ってという意味になります。自分の力、自分の才覚で生きているという考えと、天然自然によって生きているという考えとでは、全然違ったものになってくるのです。
おのずからという方に皆様がお気づきになれば、死なない命を見つけることはできるのです。
死ぬに決まっている命は、近代文明の世界観に基づく命であって、これは嘘の命です。般若心経では、どこまでもおのずからという面を、強調しています。色即是空とか、五蘊皆空という言い方がそれです。特に遠離一切顛倒夢想というのが、般若心経の目的です。
人間の考えは顛倒夢想している。夢のようなことを、まともなように考えているのです。
従って、正しい命の観点からすれば、死んでいることになるのです。
皆様は自分の目で見ていると考えている方が多いと思いますが、見ているのではなくて、皆様の目に映っているのです。光線が物に当たって反射して、皆様の目に映っている。見ているという考え方が、自我意識に基づく顛倒夢想なのです。
人間の常識は、肉体的に存在する人間の感覚を基本にしています。肉体的に存在する感覚を基本にして考えれば、顛倒夢想になってしまうのです。だから死なねばならない命になってしまうのです。
なぜ人間は死ぬのか。簡単なことです。命に対する見方が間違っているから死ぬのです。まともに命をつかまえる考え方を持ちさえすれば、死ななくなるのです。
死なない命を見つけるためには、世界観を転換すればいいのです。これは何でもないことですが、般若心経をまともに読まないから、これがさっぱり分からないのです。
般若心経の中にある究竟涅槃というのは何か。例えば人間の命はろうそくに火をともしたようなものであると仮定します。それにさっと風が吹き込んで、火が消えた状態を涅槃というのです。つまり生きていると思っている自分の気持ちが、ふっと消えてしまうのです。これが涅槃です。そうするとその人が観自在菩薩になるのです。
釈尊の悟りが、般若心経という形で現われています。これは釈尊が言ったというように書かないで、観自在菩薩が言ったというように記録されていますが、これは釈尊が涅槃になって消えてしまったことを意味するのです。そして観自在菩薩になってしまった。釈尊の妄念が、消えてしまったのです。
肉体的に人間が生きているという考え方は、一切忘念です。これは死ぬに決まっている命です。死ぬに決まっている命に執着していることは、妄念に決まっています。
皆様は今の命が死ぬに決まっていることを、よくご存じです。これが分かっていたら、この命を捨ててしまえばいいのです。命を捨てる必要はありませんが、命に対する思いを捨てればいいのです。
人間の思いは皆間違っている。これを般若心経は五蘊皆空と言っています。般若心経を読んでいる人はたくさんいます。一千万人はいるでしょう。テレビ番組のドラマでも、葬式の場面になると、般若心経が出てきます。それほど日本人に親しまれていますが、本当の意味が全然分かっていません。遠離一切顛倒夢想が、全然実行されていないのです。
なぜそういうことになるかと言いますと、般若心経を宗教の経典として扱っているからです。宗教の経典として扱わないで、本当に自分自身の人生観の基本として扱えば、このような考え違いは起こらないはずです。
聖書はもっとひどいのです。般若心経の間違いもひどいですけれど、聖書についての考え違いは、もっとひどいのです。
だいたい、聖書を現世の人間が信じることが間違っているのです。新約聖書の中に、悔い改めて福音を信ぜよという言葉がありますが、これが分からないのです。
パウロは心を変えて新にせよと言っています。変えてというのを英訳では、レニュード(renewed)という言葉を使っています。これはやり替える、出直すという意味です。出直さなければ、信じられるはずがないのです。
今まで、三十年、四十年、長い人は七十年も八十年も、この世に生きていた人間が、そのままの気持ちで聖書を信じることは、絶対にできません。信じているつもりでもだめなのです。だから、キリスト教を何十年勉強しても、本当に罪が許されたという実感が持てないのです。
パウロは、心の霊を新にせよと言っています。この世に生まれた原罪の塊の自分自身を、脱ぎ捨てて、心の霊を新にせよと言っています。心の霊は英訳ではザ・スピリット・オブ・マインド(the spirit of mind)になっています。精神の霊を変える。精神構造の基本的なあり方を、変えてしまえと言っている。これがなかなかできないのです。
今の日本のキリスト教は、普通の人間が信じられる信じ方を説いているのです。この世に生まれて、生を受けている人が、分かるようなやり方で、聖書を扱っているのです。これがキリスト教の説き方です。
聖書は宗教ではありません。キリスト教は教義に基づいて、聖書を利用しているのです。ところが、聖書は宗教ではありません。般若心経も仏教ではないのです。
命とは何か。生きていながら命が分からないというばかなことはないはずですが、現在の日本人は、ほとんど全部と言ってもいいくらいに、生きていながら命が分からないのです。皆様は現在命を経験しているのですが、命とは何かと言われると、分からないのです。これは本当の命を持っていないことになるのです。
その原因がどこにあるかと言いますと、近代文明の世界観が、根本から間違っているからです。近代文明の世界観が、一番くせ者です。これが皆様の心を惑わしているのです。
日本の古代や中世では、本当の命を確認していたわけではありませんが、近代文明ほど間違ってはいなかったのです。
例えば封建時代の人間は、生活的には非常に不便で、抑圧された状態で生きていたのですが、魂に対する考え方は、現代人よりもはるかに素朴で真面目でした。
現代人は基本的人権というとんでもないことを言っているのです。これはフランス革命やアメリカの独立の時に言われた、人間本位の思想です。現世に肉体的に生きている者を、人間だと考えている。こういう白人主義の考えに基づいて、基本的人権と言っているのです。ありもしないものを、あるように考えているのです。
近代文明の世界観で言えば、基本的人権はあるに決まっています。ところが、近代文明の世界観が、根底から間違っているのです。従って、基本的人権という考えを持つことが、死んでしまわなければならないことになるのです。
白人主義の文明は、もはや行き詰まっています。人間本来の素質を失っているのです。これは、アメリカ、ヨーロッパ、ロシアの状態を見れば分かるのです。
私は、日本から、新しい聖書の見方を、全世界に提唱しなければならないと考えています。そのためには、今までの近代文明の世界観から出る必要があるのです。般若心経を活用して、悔い改めを実行するのです。色即是空、究竟涅槃をはっきり実行すれば、悔い改めが実行できるのです。そうしたらイエス・キリストの十字架の真意が分かるのです。だから、古き人を脱ぎ捨てることが、文字通り実行できるのです。
古き人を脱ぎ捨てないままでは、聖書を正当に信じることはできません。できるように言っているキリスト教の牧師は誤魔化しているのです。死んでから天国へ行くと言いますが、これは誤魔化しそのものです。聖書にはそんなことは書いていないのです。
神の約束とはどういうことなのか。命とは何かが分かっていないのです。だから、文明が行き詰まってしまうのです。白人文明はもうだめです。アジア民族から、聖書の読み方、本当の命の捉え方を、全世界に提唱すべきなのです。
近代文明の基本的な世界観が間違っている。これを是正しなければ、人間は無限に死ぬばかりです。
毎日、毎日、人間は無限に死んでいくのです。この状態をストップしなければならない。それをするためには、文明の基本的な原理をストップしなければならない。これは一朝一夕にできるものではありませんが、私たちはどうしてもしなければならないことなのです。これは核兵器の廃絶くらいの問題ではありません。軍縮の問題ぐらいのことではない。もっと、基本的な人間存在の根本的な原理に関することです。人間文明、人間歴史の根本的な変革の問題になるのです。
 

bottom of page