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観自在

 

人間がこの世に出てきたのは、生活をするためではありません。生活とは、一つの営みなのです。営みとは、家庭とか、商売とか、会社とか学校へ行くことなのです。
人間は生活をするためではなくて、命を経験するために生まれてきたのです。人間がこの世に生まれてきたのは、生きるためです。生きるとは、命を経験することです。
本当の命とは何かといいますと、例えば、花は本当の命を現しているのです。花が命ではなくて、花が本当の命を現しているのです。
生活している人は、花と同じなのです。人生が、命を現しているのです。命はどこにあるかといいますと、花が咲く前の状態、花がない状態、花が花になるまでの状態です。これが命なのです。花が咲いてしまいますと、命の粕が現れているのです。
実は、人がこの世に生まれる前に、命があったのです。この世に生まれる前に、本当の命があったのです。この世に生まれる前の命が、今、人として、この世に現れているのです。
この世に生まれる前の命とは、自在の命、はじめからあった命なのです。これが命の本質なのです。観自在とは、これを言っているのです。
観自在菩薩は、生まれる前の命をみきわめたのです。この世に生まれる前の命ですから、この世の商売、家庭、親子関係とは、一切関係がないのです。嘘をついたことも、嘘をつかれたこともない、純粋、無垢の命なのです。これが、命の本体です。この命が、この世に生まれてきたのです。
この世に生まれたことが、業(ごう)なのです。肉体を持ってこの世に生まれたことが、人間の業なのです。カルマです。カルマを果たしてしまわなければ、人間は死んでいけないのです。この世に生まれてきたいわれをよく心得て、それを果たしてしまわなければ、絶対に死んではいけないのです。
ところが、日本には、こういうことを教えてくれる人は、一人もいないのです。世界にもいないかも知れません。
人間は、この世に生まれた目的を、知らなければならないのです。心は命を知ることができるのです。また、命によって、心が発生しているのです。命と心の関係は、非常に微妙なのです。
人は、この世に生まれる前に、純粋な命を持っていたのですが、この世に生まれて、親とか子、男と女になって、どろどろになり、業が始まったのです。
生活という問題は、生まれてから始まった、後天的な問題なのです。命の本体は、先天的なことなのです。
生活がなくてもいいというのではありません。生活はしなければならないのです。まじめに働くという気持ちさえあれば、生活するくらいは絶対にできるのです。
ですから、生活のことよりも、命のことを考えれば、業を果たすことはできるのです。ところが、日本の社会は一種の欠陥社会であって、日本人は実にいいかげんな民族です。
だいたい日本の神道が、間違っているのです。日本の八百万の神は、人間の生活のためにのみあるのです。命のことは、全く考えていないのです。天理教やPL教団は、神道にキリスト教の概念をあわせただけなのです。命とは何かという説明ができないのです。仏教でも、キリスト教でも、できないのです。
命とは何かという簡単なことが、日本人に分からないのです。だから、死ぬということが分からないのです。
人間は、命を経験しています。命を経験している状態を、魂というのです。ところが日本人は、命を経験せずに、生活の経験ばかりをしているのです。生活の経験というのは、いくらもうかったとか、損をしたとか、あの人がいい、この人が悪いということばかりを考えているのです。
命とは、五官が働いている実体です。五官は、見ること、食べることによって、はっきり、天地の命を捉えているのです。ところが人間は、五官の働きが何をしているのか知らないのです。命を知らないからです。
花道、茶道は、いくらかこれを知ろうと考えています。始めはそうだったのです。今の花道は、全然だめです。お嬢さんの遊びになっているからです。千利休は、一期一会と言っていたのです。花を活けることによって、命を見ようとしていたらしいのです。しかし、千利休はただの人間でしたので、本当の命を見きわめていないのです。
花の心は、命を見ようという心が原点なのです。お茶を飲むとは、どういうことなのか。これによって、魂がどのような感覚を持つのか。これを考えるのが、本来の茶の心なのです。ところが、肉体的な生活のことばかりを考えているのです。だから、肝心の命が、全然分からないのです。
五官が働いていることが命ですが、命がまともに働くようになりますと、五官の働きが光になるのです。命は人の光であると、ヨハネは言っています(ヨハネによる福音書1・4)。これがそのまま、仏説阿弥陀経の内容になるのです。ここで、聖書と仏典とは、一つになるのです。
言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であったとヨハネは言っています。命とは、人間が現世に生きている状態をさすのです。私達が注意してミカンを食べれば、その味が光になるのです。
人間が生きている事実は、宗教ではないのです。哲学でもない。生まれる前の状態が、生まれた後の状態になって現れているのです。これが自在なのです。
生まれる前とは、初めからあったもので、地球ができる前に、天地の命があったのです。万物の森羅万象を見て、地球ができる前にあった命を知るのです。これが永遠の命です。
人間は、永遠の命を知るために、地上に生まれてきたのです。死ぬべき人間とは、間違った命の受けとり方をしている人です。これだけのことなのです。
どうすれば死から脱出できるかといいますと、間違った考えをやめればいいのです。彼岸で生きることなのです。観自在が死なない命なのです。生まれる前の命だから、死ぬはずがないのです。これを経験するために、人間は現世に生まれてきたのです。


 

 

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