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不思議な命


人間の味覚とか、視覚、聴覚というのは、魂の働きなのです。五官ともいいます。魂は死んでもなくならないのです。犬や猫は死んでしまいになるのですが、人間は死んでもしまいにはなりません。
人間には五官があります。これは人間自身の力ではないのです。人間以上の力なのです。人間を人間としている力なのです。日本ではこれをお天とう様といっています。
人間が人間として生きているということは、その原因があるにきまっているのです。人間は生れたいと思って生れたのではないのです。生れたいと思わないのに生れてきた。そして、不思議な五官を持っているのです。理性と良心というものを持っている。理性と良心に基づいて考えることができるという、非常に不思議な命を経験しているのです。
これはどこからきたのでしょうか。精神の力をどこでもらってきたのでしょうか。これが分かれば、死なない命が分かるのです。
魂というのは、英語でリビング・ソール(living soul)といいます。リビングというのは生きているということです。生きているということが、霊魂の本質なのです。生きているという本質を一体誰からもらったのでしょうか。これが日本人には分かっていないのです。
命の本源、命の本質的な出所はどこかということです。これを知ろうと思いますと、聖書を信じるしかないのです。聖書といってもキリスト教ではない聖書のことなのです。
キリスト教の聖書は、キリスト教的にしか説明しません。仏教もその通りです。日本の仏教は、仏という言葉を仏教的にしか説明しません。仏教の仏は、仏教の中にあります。キリスト教のキリストは、キリスト教の中にあります。これは本当の仏、本当のキリストとは違うのです。
日本には、本当の仏ということが分かっている人はいないのです。釈尊の悟りを説明できるお坊さんは、日本には一人もいないのです。
宗教のどこが間違っているかといいますと、人間の魂がどこから出てきたかということを、全く知らないのです。現在魂で生きていながら、魂がどこからきたのか説明ができないのです。これが説明できないから、皆死んでしまうのです。
生活に一所懸命になっているから、分からないのです。結婚をして、何かいいことがあったのでしょうか。つまらないことばかりでしょう。やがて死んでしまうのです。商売をして、お金がたくさん儲かった。儲かってそのお金をどうするのでしょうか。
家を建てたとか、保険に入ったとか、子供を大学へやったとか、そんなことをして、何になるのでしょうか。学校へ行くのもいいでしょう。お金もうけをすることもいいでしょう。
まず知るべきことは、生れる前に、人間の魂はどこにいたかということです。生れた時に、すでに味覚神経が働いていたとすれば、その味覚神経は、生れる前にあったものにきまっているのです。
人間は頼みもしないのに、生れたのです。生れたいと思わないのに、生れたのです。誰が産んだのでしょうか。どういう目的で、この世へ出てきたのでしょうか。これが分かっていないから、人生に土台がないのです。ふらふらしているのです。上ばかりあって、根っこが全然ないのです。命の根がないから、命についての確信を持つことができないのです。
困った文明です。こういう文明が全世界にまき散らされた元凶は、煎じ詰めれば一部のユダヤ人ということになってきます。いきなりこういう言い方をすると、奇異に思われるかもしれませんが、歴史におけるユダヤ人の役割を、つぶさに調べていきますと、そう結論せざるを得ないのです。
一部のユダヤ人がキリストを裏切った。ユダヤ人が神を裏切ったのです。その結果、このような悲運が、世界に及んだのです。
原子爆弾を造ったのはユダヤ人学者です。フランス革命で、自由、平等、博愛、人権ということを言いふらしたのは、ユダヤ人です。ユダヤ人の政治原理、経済原理、教育原理が、今日の日本の原理になっているのです。だから、今の人間は、命、霊魂ということが全く分からなくなっているのです。
人の魂は生れる前に原因があったのです。今、肉体的に生きています。肉体的に生きているためには、その原因がなければならないのです。肉体的に生きているというのは一つの結果です。生れてきたという結果です。生れてきたという結果が現れているから、生活しているという状態があるのです。
生活しているという人間の原因はどこにあるのか。人間の命の原因というものが分かりますと、死なない命が分かってくるのです。
現在の人間は、肉体と霊魂の二本立の生活をしているのです。だから、何が善か、何が悪か、何が神か仏か、命も死も分からないのです。
人間の五官の働きは、霊魂の作用のことなのです。甘いとか、辛いとか、目が見えるとか、耳が聞こえるというのは、霊魂の働きなのです。それが五感となって感じられるのです。
五官は、生れる前にあったのです。一体どこにあったのか。その場所の名前のことを、神というのです。神と言わなければしょうがないのです。神ということについて、自分の命について、本当に悟りを開く状態を仏というのです。仏になれば、神が分かるのです。
分かる、分からないということを、あまり問題にしないで、自分自身が生きているという事実を見るのです。現在命を持っていながら、命が分からないのです。この命を知らない状態で、五十年も六十年も、命とつきあってきたのです。命を一所懸命にかわいがってきたのです。体の調子が悪いとすぐに病院へ行きます。それほど大切に扱ってきた命ですから、その命を見きわめるのです。
命があるのは、原因があるにきまっています。どこかに命の原因がなければ、ここに命があるという結果が発生するはずがないのです。
今の人間は、命についての知恵が、全くないのです。生活の知恵ばかりです。何も分かっていないのです。
まず魂の目を開く必要があるのです。今までの常識をたな上げにして、心の目を開くのです。そうすると、人間がどこから来たかが分かってくるのです。
 

 

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