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肉体は消耗品


人間は目で見ている感覚をそのまま信じて、道徳、宗教、芸術をつくっています。人間の知識のもとをなすものが、目で見ている世界なのです。
目で見ている世界には、すべて色があります。般若心経に、色即是空という言葉がありますが、色とは色彩という意味があります。例えば、空気でも、水でも、全部色彩があります。それで、分かりやすく色という字を用いて、物質的な現象だと言っているのです。
それから、仏教には諸行無常という言葉がありますが、諸行というものもやはり色のことなのです。少し違うのは、諸行というのはあり方の本質をさしています。色とは、目で見た感じをさしています。
なぜ諸行かといいますと、空気はたえず動いています。空気だけでなく、物質はすべて動いています。入れかわってゆく(行)というのです。近世の思想に、弁証法的唯物論がありますが、弁証法は諸行と同じことです。
すべては新陳代謝しています。人間の肉体は、おなかがすくとご飯を食べます。そのご飯が血となり肉となるのです。これが新陳代謝です。
新陳代謝は、人間の体が一番よく分かるのです。石や鉄は新陳代謝しているのですが、非常に緩慢なのです。新陳代謝していないように見えますけれど、実際はしているのです。
諸行無常の常とは、同じ形で存在する状態のことを言います。とこしえ、又はとこよということです。
物事は、固定した状態ではなく、いつも動いています。弁証法的に存在しているのです。すべての存在は同じ形ではありません。それと、色即是空、五蘊皆空とは同じ意味です。
皆様は現世にお生まれになったのですが、肉体は魂の着物です。肉体は消耗品ですから、古くなって役に立たなくなります。従って、目の黒いうちに着物を着替える必要があります。衣替えなのです。魂の衣替えです。これが悟るということ、信じるということです。魂の衣替えをしますと、大人になるのです。衣替えをするまでの人間は、子供なのです。
自分の気持ちを誰も分かってくれないと考えるのです。実際そのとおりなのです。自分の気持ちを分かってくれる人はありません。例え兄弟でも、親子でも、夫婦でも、というより、夫婦こそ分かってくれないかもしれないのです。夫婦というのは、悪くするとかたきどうしになるのです。憎さも憎し、又かわいいということになるのです。自分の気持ちを誰も分かってくれないと考えるのです。実際そのとおりなのです。
自分の気持ちを分かってくれる人はありません。例え兄弟でも、親子でも、夫婦でも、そのように、夫婦でありながら、相手の気持ちは、絶対に分かりません。これが孤独なのです。兄弟でもそのとおりです。ましてや他人においておやです。
孤独である間は、実はまだ子供から大人になりきっていないのです。未完成の人間なのです。昆虫で言えば、幼虫みたいなものです。人間は幼虫であってはいけない。チョウにならなければならないのです。
そのように、皆様も衣替えをして、大人にならなければならないのです。
神と和解することが、大人になることなのです。神と和解するとどうなるかといいますと、皆様の気持ちが、そのまま神に分かるようになるのです。又、神の気持ちが、そのまま自分に分かるようになるのです。
友達の気持ちぐらい分かっても、たいしたことではないのです。人間どうしの気持ちは、分かってみたところで、大したことはないのです。ところが、神と和解しますと、神の気持ちが分かるのです。これは得なのです。大きな得をするのです。神が分かりますと、人間はすぐに大人になるのです。
そうして、神は皆様の気持ちをとことん分かってくれますし、神の気持ちも、その人の入れものに応じて分かってくるのです。
神は大きすぎるのです。ですから、神を全部知ろうとしても、人間の入れものでは入りきらないのです。もうけっこうと言うくらいに、神が分かってくるはずなのです。そうしますと、自分が一人ではないことが、はっきり分かります。そういう状態を、人間完成と
か、仏教では大悟徹底といいます。これが本当の自由です。
つまり、一人ぼっちではなく、二人ぼっちになるのです。人間どうしの二人ぼっちとは違います。神との二人ぼっちは頼りになるのです。本当に頼りになります。ここで始めて、自由が分かるのです。命が分かるのです。
命が分かったら、もう絶対に死にません。命が分からないから死ぬのです。死ぬといっても、心臓が止まることではありません。心臓が止まるくらいは大したことではありませんが、そのあとにくるのがこわいのです。
そこで、皆様は目の黒いうちに、どうしても神と和解しなければならない絶対的な必要性があるのです。これは知らなかったではとおらないことです。
だいたい、人生は自分のものではありません。これをよく考えて頂きたいのです。その証拠に、皆様は自分で生まれたいと思って生まれてきたのではありません。従って、人生は自分一人のものではないのです。神と二人のものなのです。
皆様は現世において、ある程度、ほんのある程度、今晩の食事を何にしようかと決めるくらいの自由はあります。しかし、何のために生きているかという人生の目的は、自分ひとりで決めてはならないのです。
一人で決めるほどの頭は、人間にはないのです。これを無視して勝手に決めるのです。だから、人生が不幸になるのです。
例えば、結婚とは何かを知らずに結婚をすれば、必ず不自由になります。ところが、女の人は妙に結婚したがるのです。男は結婚をすると便利になります。女は不自由になるのです。その女が結婚にあこがれる。そこで、男にしてやられるのです。
実は、女の人が結婚にあこがれるのは深い意味があるのです。女の人はそのことを知らないのです。男も知っていません。ただ、肉体の結婚だけしているのです。魂はバラバラなのです。だから不幸になるのです。
今の人間は、親子とは何かが分からないのです。親は生まれてきたから、しようがないから育てているだけなのです。産もうと思って産んだのではないのです。産もうと思っても、産めないのです。
そういう状態でありまして、親子とは何か、夫婦とは何か、兄弟とは何か、生活とは何か、社会とは何かが分からないのです。これが幼年時代です。この状態は孤独なのです。何も知らないから孤独なのです。
神が分かると、こういうことが全部分かってくるのです。神と和解することは、大したことなのです。同じ時代に生きている人間として、他の人々をすてておけないので、こういうことをお話ししなければならないのです。
仏典に、尽天地 尽衆生という言葉があります。尽天地というのは、ことごとくの天地、天地全体という意味です。尽衆生というのは、生きているものは全部衆生だという意味です。虫であろうと、鳥であろうと、人間であろうと、命のあるもの全体を衆生というのです。つまり天地全体は、衆生全体と共にあるのです。
人間は、実は、尽天地、又は尽衆生という状態で生きている。皆様は天地全体と一緒に生きているのです。生きもの全体と一緒に生きているのです。目の前に蟻がいるとします。その蟻と、皆様は同じ命で生きているのです。こういう思想から、殺生戒という戒律が生まれているのです。
天地と同じ命で生きている人間は、お互いに思いやりを持たなければならないというのが、仏法の基本になっています。
私は皆様と同じ命で生きています。皆様と同じ天地に生きているのです。だから、黙っているわけにはいかないのです。この勉強をするかしないかで、人の一生が非常に違ってくるのです。全く違ってくるのです。
皆様は、仕事をしながら、衆生に対して命を与えるような仕事、イエス・キリストがした仕事と同じことをすることができるのです。
だいたい人間の仕事は、大自然が動いていることの一つなのです。仕事と天地の動きは一つのことです。雲の流れ、水の流れと、皆様の仕事の流れ、家庭の流れとは、同じことなのです。
天地の営みを、人間は個人的に営んでいるのです。だから仕事そのものが、宇宙全体の動きにかかわりがあるような感覚ですることが、本当の幸せなのです。
人生が、自分の所有物であるのなら、こういう話をお聞きになる必要はありません。しかし、皆様の魂は皆様の所有物ではないのですから、こういう話を聞かなければならない義務、責任があるのです。魂に対する責任があるのです。
生活には関係がないかもしれません。しかし、皆様の生活は、魂のためにあるのです。肉体のための生活とは違うのです。
肉体は魂の着物ですから、着物のために生きている人はないでしょう。体のために着物はあるのです。魂のために肉体があるのです。そこで、生活とは何かと言いますと、魂のための営みであるということになるのです。
こういうことをまずご理解頂くことが、人生勉強についての基本的な心構えであると思います。


 

 

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