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「ある」とは何か


現在の文明社会の中で、一番悪いことは、命とはなにか、生とは何か、死とは何かを、見きわめていないことです。これがはっきりしないままでいることなのです。
生死といいますが、生というのは、本質的に宇宙が存在している、万物がある、人間がある、あるということの本質が生と同じ意味になるのです。
仏教ではこれが全然分かりません。空、無ということをしきりに言いますが、それでは有というのは何かといいますと、仏教では説明ができないのです。
有というのは、「ある」ということです。例えば黒板があるとします。黒板は物です。黒板をいくら説明しても、黒板があるということの説明にはなりません。「ある」というのは何でしょうか。なぜあるのでしょうか。
地球があるのです。人間があるのです。人の命があるのです。死んでしまうと、あるということから欠落するのです。あるという状態が消えて、ないという状態に入ってしまうのです。これがいわゆる無きものなのです。
死というのはないということなのです。そういう意味で、死んだ者はどうなるのかということですが、死んだ者ということは、常識的にいう死んだ者か、あるいは本当に死んだ者か、どちらになるかということです。
常識的に死んだ者ということについてお話ししますと、例えば皆様の親戚の方、友人の方が亡くなられたとします。これは眠っているだけなのです。この世から消えて、眠りについたのです。いわゆるご永眠されたのです。永眠しているのですから、眠っている人は目をさますことになります。
それからが怖いのです。目をさますまでは寝ているのですから、死も生もないのです。毎晩寝ると同じように、死んだ人も眠りについているのです。それと同じように、人間が常識的に生きているということは、眠っていることなのです。起きていないのです。そこで、神とは何か、仏とは何かが分からないのです。
常識的に生きているということは、肉の思いで生きているということです。肉の思いというのは、目に見える現象を実体とする考えなのです。肉の思いというのは死んでいるということなのです。
常識的に生きている人の心理状態は、死んでいる状態と同じです。だから、神とは何か、命とは何かということが一切分かりません。眠っているから分からないのです。まず起きなければならないのです。眠っていることに気がついて、起きなさいと言っているのです。眠っている状態で考える神と、起きている状態で考える神とは全然違うのです。
地球というのは「ある」状態です。「ある」という状態が本質を示している。「ある」とは何か。これは哲学や宗教では絶対に説明できません。地球がある。人間がいる。空気がある。太陽がある。
「ある」というのは、キリスト教ではない聖書を勉強しなければ、分からないのです。「ある」という簡単なことが分からない。そこでキリスト教が宗教になってしまうのです。聖書を勉強しながら宗教になってしまっているのです。
人間が生きているというのは、一つの状態です。ところが人間がいるからこそ生きている状態があるのです。存在ということが分からなければ、生きているということが分からないのです。
「ある」ということが神なのです。これがキリスト教では分からないのです。ユダヤ教もこれを全然つかまえていないのです。ユダヤ教の神というのは、ユダヤ教の頭でひねり出した神です。キリスト教の神は、キリスト教の頭でひねり出した神なのです。これは仏教でひねり出した仏と同じことです。皆頭で考え出した神なのです。人間の頭からわいて出た仏、神なのです。それをいくら信じても、人間が人間の観念を信じているだけです。イワシの頭も信心からになります。
問題はあるということなのです。「ある」ということが絶対なのです。「ある」という絶対にしっかりと両足をつけて、これをふまえて考えれば、はっきりするのです。
現在の人間は、「ある」ということを知らずに生きている。そういう人は幻覚のうちに生きているのです。そして幻覚のうちに死んでいくのです。
やがて目をさますことになります。幻覚の世界でない所で目をさますのです。眠っている時は幻覚ですみます。ところがこんど目をさましますと、地球がなくなっているのです。物がなくなった状態になります。新約聖書ではその状態を霊といいます。
霊なる状態で死人が目をさますことになりますと、悲しいことになります。生きている間に全然考えなかった世界へ、裸で放り出されるのです。気の毒なことになるのです。
そういう人をどうするかといいますと、今皆様は生きておいでになりますから、「ある」ということを勉強するのです。そうすると死んでいる人を助けてあげることができるのです。これが本当の法事なのです。
死んだ人を弔うのは、現世に生きている家族の人が、本当の悟りを開いて、本当の命、本当にあるということをつかまえるのです。
肉体的に生きているというのは、幻です。これはやがて消えてしまいます。幻ではない命を、目の黒いうちにつかまえるのです。
般若心経の究竟涅槃は、その入口なのです。究竟涅槃だけであるということが分かるのではありません。究竟涅槃というのは、一切空という場に立つことで、一切空という立場に立たなければ、本当の存在は分からないのです。一切空の立場に立って初めて、「ある」とは何かが分かってくるのです。
実という場に立たないで、神とは何か、仏とは何かと議論をすることが、宗教理論になるのです。どうせするなら、五蘊皆空という立場にとびこんでしまうのです。究竟涅槃という所へ入ってしまうのです。今まで生きてきたことが、全く空であったという事実に立つのです。これがキリスト教では全然できないのです。だからイエス・キリストがさっぱり分からないのです。
命が分からない原因は何かといいますと、存在するということが分からないからです。これは哲学ではないのです。命の問題なのです。人間の命というのは、「ある」ということの本体をつかまえることが目的なのです。
 

 

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