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本当の命


例えば、富士山が見えるとします。ところが、富士山の近くへ行きますと、富士山がなくなってしまいます。富士山に登りますと、石と土だけになってしまいきれいな富士山が見えなくなってしまうのです。この原理です。
私達は、今山を登っています。これが人生なのです。目に見えるものは、土や岩ばかりです。山を山として見ようとすれば、何キロか離れて見ればよいのです。そうすれば綺麗な山が見えるのです。
色蘊というのは、般若心経の五蘊の一つです。目に見えるとおりのものがあると考えることが色蘊ですが、これは山に登って石や岩を見ているような感覚であって、石や岩は山とは違うのです。
ところが、山を見ているつもりで、右や土だけを見ているのです。生きているつもりで目の前の人生だけを見ている。目の前の家庭とか、友人とか、職場の人だけを見ているのです。
自分の家庭を離れて、人生を二、三キロ離れてみると、家庭というものがどういうものか分かるのです。
人間が生きている本当の姿は、自分が考えているものとはだいぶ違うということが、納得できるでしょう。分かりやすく言えば、こういうことになるのです。
現在の人間は、必ず死にます。必ず死ぬというのは、本当の命ではないということです。死なないのが本当の命なのです。死ではないから、命というのです。
必ず死ぬにきまっているということは、本当の命を経験していないということです。だから、命についての説明ができないのです。遠く離れてみた自分は、死なない自分です。遠くから富士山をみているように、とても綺麗にみえるのです。これは客観的な自分です。ところが、目の前の自分は岩や石ころばかりです。矛盾と執着と憎しみ、恨みばかりです。これは絶対に死んでしまう自分です。これが主観的な自分です。絶対に死なない自分と、必ず死んでしまう自分と二人いるのです。
今生きている命は、仮の命だ、空なる命だということです。五蘊という命を生きている。五蘊で生きているのだということを考えていきますと、今生きている命が仮の命だということが、よくお分かり頂けると思います。
これが分かりますと、次に、本当の命はどこにあるかということが問題になります。それは、キリスト教ではない聖書にあります。そこに本当の命があるのです。イエス・キリストが死を破ったという事実です。これを勉強すればよいのです。
日曜日は、キリストの復活記念日です。復活記念日を世界中の人が、日曜日として守っているのです。
実は、今、人が生きているということを、常識を捨てて、ありのままに命を見たいというお気持ちを持てば、今生きている姿が、そのままで、死なない姿になるのです。
人間が生きているのではない。実は霊魂が生きているのです。霊魂とは何かといいますと、神のことばが肉体的に現われたものです。神のことばというのは、五官の根本的な機能を言うのですが、それが五つに分かれたのが五官です。
神のことばが、肉体的な状態で現われていることを霊魂というのです。人が生きているのは、そのまま霊魂なのです。肉ではないのです。
肉というのは、自分がいる、現象が実体であるという考え方です。霊とは、物事の本質、神の思考方式をいいます。
新約聖書で、肉の思いは死である。霊の思いは命である、平安であるといっています。霊の思いで自分を見ることができれば、死なない自分が分かるのです。せっかく生きているのですから、死なない命を見つけて頂きたいのです。見つけたいと考えるのです。
人間は初めからいないのです。天然自然によって生れたのが、人間というかっこうであるだけなのです。これはどこまでも魂であって、人間とは違うのです。
死を破るたった一つの方法は、般若心経で空を悟り、聖書で今生きているのが、イエスだということを知ることです。
イエス・キリスト以外に死を破った人は一人もいないのです。釈尊も孔子も、ジンギスカンも秦の始皇帝も、シーザーもナポレオンも死んだのです。人類の中でたった一人、イエスだけが死を乗り越えた。死を破ったのです。死を破った人が、実はあなたの本当の姿であることを知ることなのです。
神はイエスをどのように処置したか、イエスを死人のうちから甦せたとはどういうことかということを、勉強すればいいのです。          
あらゆる人の命の実物が、イエスの命なのです。イエスの命が、実は人の命の実体なのです。人はこれを知るために生れてきたのです。
 

 

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