宗教はなぜ間違っているといえるのでしょうか?
宗教は命の説明ができないのです。自分さえ満足できればいいのです。命の勉強は、自分が満足できるかできないよりも、命の目が開くかどうかなのです。
正法眼です。正しい法ということは、明けの明星が分からないと説明ができないのです。命を見ることが、正法眼なのです。これを道元禅師は、正法眼蔵といっています。蔵とは、それが書いてある経文ということです。
道元は、正法眼という言葉を使っていますけれど、彼は命を知らなかったのです。道元は命のことを、法だと思っていたのです。命を法だと思っている人は、宗教からぬけきっていないのです。
道元禅師は悟りは開いていましたが、救いをつかまえていなかったのです。道元の時代には、聖書がなかったから、しかたがないといえないこともないのです。
般若心経には、悟りは書いています。しかし、涅槃をつかまえてから、どうするかを書いていません。涅槃をつかまえるということは、自分から抜け出すということですが、自分から抜け出して、何をつかまえるかが分からないのです。
般若ハラミタと言いますから、向こう岸に何かがあるのです。何かあるに決まっていますが、それをつかまえたという説明がないのです。明けの明星が説明できないからです。
釈尊にはできたのです。明けの明星は、やがて現れる本当の命のことです。これを釈尊は感じたのです。
しかし、今の日本の仏教は、全部だめです。お祖師さんの日蓮の教えを、日蓮宗が教えている。禅の悟りを、禅宗で教えている。道元の悟りを、曹洞宗で教えている。親鸞の信仰を、浄土真宗で教えているというように、お祖師さんの信仰ばかりを拝んでいる。
お祖師さんは偉いかもしれませんが、お祖師さんは仏とは違います。一休和尚が、「祖師は仏を売り、仏は法を売る」と言っていますが、これは本当です
仏とは、仏陀であり、法はダルマです。この正体が分からないのです。日蓮の悟りは、お祖師さんの悟りであって、現世で仏法をどのようにこなすかを述べているのです。現世に生きている人間が、南無法蓮華経と唱えることを教えるのです。現世に生きている人間に、教えているのです。
ところが、現世に生きている人間は、影なのです。霊魂の実体とは違うのです。明けの明星が分かると、霊魂の本体が分かるのです。そうすると、今まで考えていた宗教ではない、本当のことが分かってくるのです。
命には生と命とがあります。生(せい)とは、隠れている真実です。命(めい)は、現れている真実です。この二つを生命といいますが、宇宙そのものが、生命の実体になっているのです。
銀河系は、何のためにあるのか。これは、宗教では全然分からないテーマです。銀河系宇宙があるためには、理由があるのです。あるべき道理が、なければならないのです。銀河系宇宙があるべき道理というのは、命(めい)の法です。なぜ現れなければならないかというと、生(せい)にあるのです。
生とは宇宙の絶対です。絶対にいのちそのものであることが、宇宙の絶対なのです。この宇宙の絶対から、強力な働きが出ているのです。これが電気です。強力な絶対的な電波と言ってもいいでしょう。
この電波が二つに分かれて、私たちに接触しているのです。一つは命です。現れている命です。もう一つは、光になって出ているのです。命は、物理的に直感できるものです。光とは、知恵として、感覚的に直感できるものです。エネルギーが二つに分かれているのです。
仏教では、命の方を、無量寿如来といっています。帰命無量寿如来という正信偈の文句です。光の方は、南無不可思議光です。帰命無量寿如来南無不可思議光法蔵菩薩因位時というのは、正信偈のすばらしい思想です。しかし、実体とは違うのです。
仏教は思想を説いているのであって、実体を説いているのではないのです。法蔵菩薩は、命と光をつかまえた。因位時というのは、法蔵菩薩の位にということであり、現世自在王仏性とは、現世に生きていることが、自在を生きていることになるのです。
これは影の理論であって、実体の命の理論ではないのです。
法蔵比丘は、人間はいない。生きているのは、命と光だけだということを悟ったのです。
法蔵比丘とは、釈尊の変身なのです。この世に生まれてきた自分は空である。生きているというかっこうで、命と光だけがある。だから、自分はいない。これを悟ったのが法蔵比丘、ダルマカラーだと言っているのです。
これが大無量寿経の精神なにです。これをそのまま受け入れて、法蔵比丘になったらいいのです。法蔵菩薩因位時になったらいいのです。
この悟りを持つためには、宇宙にある電気の二つの働きを知らなければならないのです。一つは物理的な電気です。もう一つは、電気の心理的な働きについてです。これが本当の悟りです。これしかないのです。これを信じなかったら、地獄へ行くしかないのです。
電気は、精神的に働く面と、物理的に働く面と、両方あるのです。精神的に働く面が無量光如来、物理的に働く面が無量寿如来です。電気には、命と知恵の二つがあるのです。これが神の実物です。天地創造の実体です。
日本人はこういう見方ができないのです。仏さんは偉いものだといって、拝んでいるだけです。拝んでいるだけではだめです。仏さんをつかまえて、自分の中へひっぱりこんで、仏の中へ入っていかないとだめです。
仏と自分とが、一つになることを、成仏するというのです。成仏しなければだめです。
人が本当のことを知りたいと思うと、その願いが、必然的に電気の方へ通じるのです。不可思議光というのは、光というのは、命の知恵の方へ、人の思いが通じていくのです。
そして、知恵の方から、又信号がくるのです。このように、宇宙はすばらしいものです。
人間は今、命を経験しているのですが、これは宇宙の命と同じものであって、感動しあっているのです。花が咲いているのは、宇宙の命が現れているのです。だから、綺麗にみえるのです。
花が綺麗に見えるのは、自分の霊魂と、宇宙の本源が、つながっている証拠なのです。これを聖書では、キリストの言葉といっているのです。
綺麗に見えるとか、すばらしいとか、おいしいとか、心が吸い取られるような気持ちです。これをキリストの言葉というのです。
これが分かると、初めて、信じるとは何かが分かってくるのです。宗教ではない信仰です。人間の魂の開眼です。正法眼です。これが開かれてくるのです。
宇宙の正法、生ということが分かるのです。法蔵菩薩因位時ということが分かる人は、法蔵菩薩の悟りが、そのまま自分の中に入ってくるのです。これを聖書では、御霊(みたな)の信仰というのです。
御霊とは、稲妻として働くエネルギーです。人間の魂の底まで見通すような形で働く光と、目に見えない光の両方があるのです。これが神の位から出ていると、聖書は書いているのです。
神という位があるのです。この位に命があるのです。咲いている花に、人間は小便をかける気がしないのです。犬ならします。ところが、人間は花を避けて、小便をするのです。つまり、花が咲いていることが、光なのです。命が光になって現れているのです。
花が咲いているのが、命の光です。これが人間の霊魂に、ぴんと感じられるのです。だから、花には小便をかけられないのです。
こういうことが、日本の儀式作法の根底になっているのです。命のあり方が、日本人の場合、おのずから、生活の行儀作法の心得として、昔から伝承されてきているのです。欧米人にはこれがないのです、日本人にはあるのです。
日本人は、お茶の位とか、花の位を知っているのです。それは、日本人の大脳の働きが違うからです。左の脳、言語脳の働きが、違うのです。
日本文化は、世界にない特殊の持ち味を持っているのです。宗教ではなく、日本文化の本質を見ていけば、素直にものを見ることができるのです。