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前編、中編、後編


人間は生れてきたといいますが、生れてきたという以上、どこかから来たことを意味するのです。又、死んでいくと言いますが、これはどこかへ行くのです。
人間生活は、現世におけるという一つの注釈がつくのであって、本当は目の黒い間だけが人生ではありません。皆様方の人生には前編があったのです。今の人生は中編です。そして死んでから人生の後編があるのです。
死んでいく時、俗にいっかんの終りといいます。これは一巻の終りという意味にとった方がよいでしょう。一巻が終った後に、二巻があるはずなのです。そこで、一巻の終りにならない前に、現世にいる間に、人間とは何かということを学んで頂きたいのです。
例えば新約聖書には、人間はどのようなものだから神がこれを心にとめられるのだろうかというような言い方をしています。仏教にはこれがないのです。
大乗仏教には魂という言葉がないのです。なぜかといいますと、大乗仏教には神がないからです。つまり人生の根源がはっきり設定されていないのです。従って、神という言葉がないのは、当然のことかもしれません。仏ということ自体が悟りを意味するのです。人間が現世に生きていること自体が、無意味なもの、むなしいものだということを悟ることが、仏教の目的です。
現在、常識的に生きている状態がむなしいものであることが分かりますと、初めて、自分自身の本体が阿弥陀であることが分かるのです。阿弥陀というのは、アミダーバーという言葉とアミダーユスという言葉が両方重なって、阿弥陀如来となるのですが、これが、実は人間の本体だと言われているのです。三部経ではそういっているのです。
ところが、阿弥陀如来といわれましても、歴史的実体であるとはいえない。これは概念的人格性です。一つの教えとしての人格性であって、歴史的に存在する人間ではありません。そこで、大乗仏教では概念は分かりますが、永遠の生命の実物をつかまえることができないのです。ですから、イエスの復活を勉強しないと、本当の命は分からないのです。
日曜日というのは、イエスの復活記念日です。日曜日に世界中の人が休んでいる。これは宗教ではありません。イエスという人だけが死を破ったのです。これは歴史的な事実なのです。このことを勉強しなければ、皆様方の人生は、本物にならないのです。自分の人生を本物にしようと思ったら、この世へ生れてきただけではいけないのです。
この世へ生れて、皆様方は目で見たり、耳で聞いたりしました。目で何を見たか、耳で何を聞いたか。そのことが、はっきり命とつながるような聞き方をするようにならなければ、本当の人間ではないのです。見ていること、聞いていること、手でさわっていること、これは命の言葉である、とこしえの命であると、ヨハネが新約聖書の中で言っているのです。
仏教のことをお話ししますと、仏説阿弥陀経の中で、ただ念仏を口さきだけで言っているだけではだめであって、阿弥陀如来の名号のいわれを心にとめて念仏申せといっているのです。
ところが、現在の真宗の信者は、阿弥陀如来の名号のいわれを心にとめる、つまりアミダーバーとかアミダーユスということがどういうことかをしっかり考えないで、ただ口さきだけでナムアミダー、ナムアミダーといっている。これは全く宗教観念であって、無効なのです。
現在の仏教は、経典に書いてあることを実行していないのです。般若心経の文字を読んでいるが、実行していないのです。だから宗教になってしまうのです。
キリスト教も同様です。聖書に書いてあることをはっきり知っていないし、実行していない。ただ信じますといっているのです。これを宗教観念というのでありまして、ただ現世だけで通用するものです。死んでしまえば一切通用しないのです。通用しないものを信じてもしょうがないのです。
そんなことをやめて、本当に自分の命が何であるかを、はっきり見きわめて頂きたいのです。
実は、目でものを見ていることが命なのです。耳で聞いていることが命なのです。皆様方の心臓は動いています。この心臓が動いている事実を神というのです。キリスト教でいう神とはだいぶ違うのです。
皆様方の心臓が動いていることを、生ける神というのです。生ける神がはっきり分かって、神と同じような生き方ができれば、絶対に死にません。これはそんなに難しいことではないのです。キリスト教では難しそうに言いますけれど、宗教観念でそう言っているだけのことなのです。むしろ、真実の勉強の方が、キリスト教の勉強よりやさしいのです。
本当に正直に、死にたくないと思う人は、般若心経と聖書の勉強をして頂きたいのです。
 

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