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無限の能力


今の文明で、一番悪いことは、基本的人権という思想です。これは、一部のユダヤ人が考案した、非常に悪い思想であって、フランス革命に基づいて、自由、平等、博愛の思想に基づいて、起ってきたのですが、人権があるという気持ちが、一番悪い思想なのです。
人間は、自分の意思で生れてきたのではないのです。生れたいと全く思わなかったのに、生れてきました。マルクスは、人間は偶然に生れたといっていますが、これは、人間の命を非常に軽くみた、やくざな思想です。
人間は、決して偶然に生れたのではありません。偶然に生れたのなら、理性と良心があるはずがないのです。
人間は、命を自覚しなければならない責任があるのです。宇宙が存在すること、小さく言えば、地球が存在することが、人間の命ついての、一番手近な目やすになるのです。
人間は、地球に存在するあらゆることについて、時間的にも、空間的にも、知ることができる。知ることができるということは、地球のあらゆることについて、人間は責任があることなのです。人間の理性的な能力は、その人の存在の本質を、そのまま現わしているのです。
人間は、時間が分ります。空間が分ります。人の顔色を見て、どう思っているかが、だいたい分ります。だから、駆け引きをすることができますし、嘘を言うこともできます。約束することもできます。
そのように、悪いことも、良いこともできるのです。これは、人間が地球的存在に関して、無限の能力を与えられているという意味なのです。有形的にも、無形的にも、無限の能力を与えられているのです。
私達がその気になれば、神とほとんど同質の内容を持つことができるくらいの、すばらしい可能性を持っているのです。神を信じるとは、神と同じものになることなのです。
イエスはこれを実行したのです。神にかたどって人を造ったということは、神の持つ人格と同じような人格が、人間に与えられたということです。だから、自分の人格をよく考えて、人格にふさわしい思いを持つなら、命の周波数が、がらっと変ってしまうのです。
日本の宗教を信じてもだめです。仏教も、キリスト教も、神道も、皆だめです。宗教は、人間が造った理屈です。人間が造った理屈を、人間が信じて、何になるのでしょうか。
人間が信頼できるのは、自分自身の人格の本体です。自分自身の命の本体です。命の本体こそ、本当に信用することができるものです。これを神というのです。
西欧人は、本当の神、本当のキリストを信じることができません。日本人は、これができるのです。命なる神ということ、生きていることが命であり、命の実体が神だということが、日本人なら分るのです。
人間は、この世で生きるために生れてきたのではないのです。命の本体が何であるかを弁えて、命の本体をつかまえること、イエスの生き方をすることが、生れてきた目的なのです。
イエスの生き方をするためには、まず釈尊のように、一切空が分らなければ、本当の命は分かりません。これを、聖書では、悔い改めて福音を信じると言っているのです。悔い改めるとは、考え方を全く変えてしまうのです。自分が考えている周波数を変えてしまうのです。そうすると、脳波の働きが変ってくるのです。
自分の考えをにぎりこんでいますと、必ず死にます。死んだ後がこわいのです。ただこの世を去るだけと違います。第二の死があるのです。
仏教は、人間が死んでからということを、説明できないのです。なぜできないかといいますと、仏教には、造り主がないからです。創造者がありません。創造者がないから、霊魂の説明もできないし、死んでから人間の霊魂がどうなるかの説明も、できないのです。
仏教的に考えますと、死んでしまえばそれまでということになります。しかしこれは、宗教の考えなのです。
釈尊の悟りは、宗教ではありません。釈尊は、現在人間が生きていることは、空だといっているのです。これは本当のことです。釈尊は、人間は死んでしまうものだといっているのです。だから、今、人間が生きていることは、空だといっているのです。このことを、日本の仏教者は、誰も言えないのです。
日本の仏教は、親鷲とか、道元とか、弘法大師、日蓮の悟りを説いているのです。日蓮は日蓮の情報を述べているのです。これは、釈尊の思想に関係はありますが、本当の空ではありません。
釈尊の空の悟りによって、現在生きている命が、本当の命ではないということを悟るのです。これが、釈尊の悟りのすばらしさす。そして、新約聖書によって、イエスを勉強すればいいのです。そうしたら、永遠の生命を捉まえることができるのです。

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