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公義とは何か


日本人は魂という言葉をよく知っていますが、内容がさっぱり分からないのです。魂という字は、仏教にはありません。仏教にはない文字ですから、仏教国である日本人が、魂が分からないのはやむを得ないことなのです。
魂を簡単明瞭に言いますと、言(ことば)が肉となったということです。新約聖書ヨハネによる福音書一章十四節にあります。日本語の聖書では、言が肉体となったと訳していますが、これは正確ではないようです。言が肉となったというのが正しいようです。
ヨハネによる福音書一章一節に、初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であったとありますが、この言が肉となったのです。言が命の本体なのです。理性と良心をひっくるめると、言になるのです。これが人の命の本体なのです。
言は即ち神であったとありますように、言とは実は神なのです。今まで、この書で、心臓が動いていることが神だと何回も述べてきましたが、心臓が動いていることが言です。目が見えることも言です。耳が聞こえるとか味が分かるという舌の働きは、自然科学の原点であるエネルギーなのです。エネルギーの本当の意味は、精神の力と訳すのが正しいのです。ただの力の場合もエネルギーという言葉を使いますけれど、本当の意味は、精神的な力のことなのです。
精神的な力とはどういうことかと言いますと、言としての力なのです。神が物を言っているのです。心臓が動いている、目が見えることは、神が人の中で物を言っていることなのです。
これを阿弥陀如来は悟ったのです。法蔵比丘というお坊さんが、このことを悟ったのです。自分の中には、無量寿如来という限りなき命があると悟ったのです。如来とは神そのものなのです。心臓の動き、目が見える働き、耳が聞こえる働きがエネルギーです。これが命であって、これが魂の根本原理なのです。
言が肉となったということが、聖書で一番難しい所なのです。神とは霊です。神は霊であるから、礼拝する者も、霊と誠とを持って礼拝すべきであると書いています(ヨハネによる福音書四章二十四節)。
言は霊なるものです。これは神ですが、これが一体どういうことなのか、さっぱり分からないのです。
言が肉となったというのは、霊なる神が、自分と同じものを、肉として現わしたということです。肉は神の同性ではないのです。神の同性は、霊性です。肉体は異性になるのです。つまり神は自分の異性を作ったのです。
神自身が、異性になって現れたのです。これが永遠の命の本当の秘密なのです。人間が死なないと言うのは、この原理なのです。
神は愛の対象として、異性を造ったのです。神は大変なことをしたのです。神が愛そのものであることが本当に分かりますと、死なない命がはっきり分かるのです。
人間は、本当の愛を経験したことがないのです。人間同士の愛は、本当の愛ではありません。普通、人間同士が睦み合うことを愛と言いますが、聖書が言う愛はそんな低いものではありません。絶えることのない永遠無窮の愛を言っているのです。
本当の愛は、これでなかったら駄目なのです。現世に生きている間だけの愛がいくら分かっても、それは本当の愛ではありません。神は愛なりとありますように、本当の愛が分かりますと、魂の本質が、神の愛の対象であることが分かるのです。
これを浄土真宗では、他力本願の命と言っています。神の愛は、阿弥陀如来の本願と同じ意味になるのです。人間は、阿弥陀如来の本願で救われるのであって、自分の信心で救われるのではないのです。
阿弥陀如来の本願の実物は何かというと、神が人の魂を愛しているということです。目が見えるということが、神が人を愛している証拠なのです。心臓が動いていることが、神が今、ここで、人を愛していることなのです。これが神と人の魂との関係なのです。
魂は何を求めているかと言うと、永遠の愛を求めているのです。いつまでも変らない本当の愛を求めているのです。これが阿弥陀如来の本願なのです。これはイエス・キリストの復活によって、はっきり証明されているのです。
現在の地球は、未完成の地球であって、地球そのものが不完全なのです。その証拠に、地震が起るのです。台風、疫病、早魅、洪水、噴火、津波、竜巻、雪崩といろいろな災害に脅かされているのです。これを通して、今生きている命は、仮の命であることを悟るべきなのです。
現在の命が、本物だと考えるのは、近代文明の意識であって、昔はそう考えなかったのです。徳川家康の軍旗、厭離穢土欣求浄土というのは、現在生きている命は、本物ではないから、本当の命を見つけたいといっているのです。
現在の地球は未完成ですが、やがて完成するのです。聖書は、地球の輝かしい未来を示しています。そうならねばならない、必然性があるのです。
不完全、未完成の地球が、永遠に続くはずがない。これから何十億年も、地球が存続するという学者もいます。仏教では、五十六億七千万年と言っています。仏教のホラよりも、学者のホラの方が短いのですが、どっちにしても、何億年もこれから地球が存在するはずがないのです。
現在の文明は、本当の文明とはいえないのです。本当の文明は、地球の完成の方向に向って進んでいくものです。これと、イエスの復活と、どういう角度でかかわっていくのかということ、これは、キリストの再臨という大問題です。キリスト教ではこれが分っていないのです。再臨という理屈は分っています。しかし、具体的にはっきりした説明はできないのです。
地球が新しくなるということは、人間の歴史が新しくなるということです。その時に、魂の裁きという問題があるのです。
今生きている人間は、仮の姿であって、仮の現象なのです。死ぬにきまっている現象なのです。死なないにきまっている人間が、やがて現われることになります。
イエスは、この世はすぎ去るといっています。すぎ去った後に、すぎ行かない神の国が、厳然として実現します。その時に、本当の勝負が決るのです。
その時、死んだ人間が、全部甦がえります。海と死と黄泉の三つに死んだ人間の亡霊が入れられているのです。これが、全部甦えるのです。その時、本当に公平な裁判が行なわれるのです。
本当の公平とは何か、これを公義というのです。公義という日本語は、ないようです。旧約聖書だけにある概念です。岩波書店の広辞苑でも、公義という言葉はないのです。公義が現われる時、本当の世の中になるのです。
現代の文明思想から脱出してしまわなければ、だめなのです。現代の字間とか、常識で見ている間は、本当のことが分らないのです。公義に目をさます時、始めて、人間は、本当のことが分るのです。
 

 

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