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釈尊の悟りの内容


人間歴史はだいたい六千年ぐらい続いてきたと言われていますが、その中で本当に信用ができるものは、二つしかありません。
その一つは釈尊が言ったことです。釈尊は今日では、万徳円満釈迦如来という偉い大先生のように言われていますけれど、実はただの人間なのです。釈迦族という国の皇太子でした。彼は、生老病死という問題、人間はなぜ生まれ、年をとり、病気になって死んでいくのかという疑いを持ちはじめて、王国の王子の身分を捨てて、修行をはじめた。そして、ついに、人間が生きていることが空であるという結論に達したのです。
暁の明星を見たことが、大悟徹底の発端であったと言われていますが、暁の明星を見たことによって、本当の文明、本当の世界はまだ現れていないことを達観したのではないかと思われるのです。
本当の人間はまだ現れていない。釈尊自身が生きていると考えていることが、五蘊なのだ、自分の観念、自分の妄念で自分が生きていると思っているのだ、人間はすべて、無明煩悩のとりこになっているということを悟りまして、一切空という思いきったことを言ったのです。これは本当です。信用する値打ちがあるのです。
現在、日本の仏教界では本当の空が説かれていないのです。日本の仏教はお祖師さんの教えばかりなのです。日蓮の教えが日蓮宗になっている。親鸞の教えが浄土真宗になっている。法然の教えが浄土宗に、弘法大師の教えが真言宗になっている。これは本当の釈尊の悟りそのものではないのです。もちろん関係はあります。密接なつながりはあるにきまっていますけれど、釈尊の言った五蘊皆空、色即是空という言い方は、般若心経だけしかないのです。
般若心経の言い方は、人間が生きているそのことが、空であるとはっきり言いきっているのです。般若心経の中ごろに、遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃という言葉があります。一切顛倒夢想というのは、人間は逆立ちして夢のようなことを考えている、人間の常識は、すべて逆立ちして考えているような状態だと言っているのです。
例えば、人間は現在生きている命を、本当のものだと思っている。これが顛倒夢想なのです。現在人間が求めている幸福を、本当の幸福だと思っている。これが顛倒夢想なのです。
現在の人間の常識を解脱して、涅槃を究竟するのです。涅槃とは、ろうそくの火がともっているのが、風ですっと消えてしまうことです。人間の考えが消えてしまうことをつきとめることが、般若心経の目的であると言っているのです。
この世に生きている人間を幸福にすることが仏教の目的のように考えられていますが、般若心経によりますと、現在生きている人間は、空になってしまわなければならないといっているのです。これは、今の仏教とだいぶ違います。そのように、本当の仏法が今の日本にはありません。仏教と仏法とは違うのです。
釈尊の本当の悟りは、般若心経でわずかに見ることができます。般若心経でさえも、一見明星のことは書いていないのです。永遠の命が何であるか、釈尊が一切空といったのはどのような論理に基づいてであるかが、般若心経では説明していません。
もう一つ信用することができるのは、イエス・キリストが死を破ったことです。復活したことです。歴史的事実として、イエスが甦ったことです。
日曜日は、イエスが復活した記念日なのです。イエスが死を破ったことは大変なことなのです。死を破ることは、人間の最高の願いなのです。死を破ったことは、最大の事実なのです。
本当に、歴史的事実において死を破ったのは、イエスだけなのです。
六千年の間で、ただ一度だけ死を破ったという事実があるのです。つまり人間は死ななくてもいいという事実を、イエスが証明したのです。日曜日がその記念日であって、キリスト紀元はキリストが暦年算定の基準になっているのです。
これはどういうことか。この事実は宗教ではないのであって、この間題を学問が本当に勉強しなければならないのです。イエスの復活という問題は、一番最初に、学の対象として取り上げられなければならない大問題なのです。ところが、これを現在の学は勉強しようとしていない。これは学の怠慢です。なまけているのです。
イエスが復活して、この地球上に、四十日間生きていたのです。現在の地球で、イエスが復活したことによって、今の人間の肉体ではない別の肉体がありうることを、イエスは証明したのです。
だからこれは人文科学の上からだけではなく、自然科学の上からも取り上げられなければならない大きな問題なのですが、これを現在の学は取り上げようとしていない。これは甚だしい怠慢です。
聖書には、この地球上で死を破ったイエスが、焼き魚を食べたと書いています。焼き魚を食べたというから、肉体はあったのです。その肉体は普通の人間の肉体ではなかったのです。
そのような肉体がはっきり証明されるとすれば、死なない肉体を経験することができるはずなのです。聖書を真正面から読んでいきますと、キリスト教とは全然違ったものになってくるのです。
般若心経でもその通りです。正面から堂々と読んでいきますと、日本の仏教とは根本的に違ったものになってしまうのです。
人間歴史の中で本当に信用できるのは、釈尊の悟りと、イエスの復活だけなのです。この二つのもの以外には、信用できるものは全くないと言わなければならないのです。
 

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