top of page

向こう岸から見る

 

聖書の言葉は、向こう岸、彼岸へ渡ってしまった状態で発言しているのです。
般若ハラミタが論理的に説明されますと、聖書の言葉、神の言葉になるのです。向こう岸というのは、神の国のことです。神の国の感覚で説明しますと、人間の見方とは反対に見えてくるのです。
 新約聖書のマタイの福音書の山上の垂訓に、『下着をとろうとする者には上着をも与えなさい』(5・40)という言葉があります。着物とは、その人の魂にまといついている状態のことです。下着とは、魂に直にまといついている状態をいうのです。上着は直ではなくて、下着の上から着るものであって、下着とはその人の霊魂が直に感じている感覚です。
 魂は喜怒哀楽を考える気持ちの根源なのですが、その受け止め方が人間的なのです。おいしいことを自分が受け取っていて、おいしいと説明ができないのです。これが魂が死んでいることなのです。
 人間が肉体人間として感覚していることを下着といっているのです。例えば、セックスの問題です。これを魂はどう感じているのか。人間は皆、肉体人間でセックスを経験しています。これが性欲です。これはだめです。
 魂でセックスを経験しますと、内容が変わってしまうのです。肉体でセックスを考える状態が間違っているらしいということが、女の人にはよく分かります。男でも分かりますが、女の人には特によく分かるのです。
 間違っているらしいということが分かっていることは、下着を奪われようとしているのです。セックスに対する考え間違っていることを、神の御霊が示しているのです。
 ところが、それを神に与えようとしないで、自分のセックスは自分のことだと思っている。セックスの気持ちを、自分で握りこんでいるのです。これが罪を犯していることなのです。日本中の1億2000万人の人間は、セックスについて間違っているのです。これが地獄に行く原因になるのです。
 日本の宗教家で、セックスを徹底的に説明できる人はいません。神の御霊によらなければ、説明できないのです。
 女の人はセックスについて生臭いと思えることは、間違っていると思っていることなのです。直感的にそれが分かっているということは、神がその人の下着を奪おうとしていることなのです。
その時には、下着と同時に、上着も渡せと言っているのです。上着は何かというと、社会的に活動している状態、商売をしている状態、人の前で公に仕事をしている状態をさしているのです。
隠れてしていることが間違っているとすれば、公にしていることも間違っているのです。この両方を神に渡して、神の前にへり下れと言っているのです。
セックスが生臭く思える人は、社会的に生活していることも生臭いのです。道徳観念も間違っている。価値観、世界観が全部間違っているのです。だから、そういうセックスになっているのです。
根本から、土台から、腹のどん底から全部、神に渡してしまえと言っているのです。肉体感覚で考えれば、セックスは当たり前のことです。ところが、女の人には性行為は生臭いものに思えるのです。中学生や高校生が一所懸命にヌードを見たがる。ヌードの芸術性を見ているのではない。セックスをのぞこうとしているのです。十四、五才から上の日本中の人間は、妙に色気づいているのです。セックスに対する考え方が、根本から間違っているのです。これが人間が地獄へ行く原因になるのです。
地獄とはどういうものかというと、人間の記憶に関係するのです。人間がこの世において生活したことは、記憶の中に皆刻み込まれています。これは火葬場へ持っていっても、灰にはならないのです。人間の記憶はそのまま霊魂の記憶になって、神の御座の前に立たされるのです。
ただ死ぬだけならいいのですが、死んだ後に復活の時が来て、神の大審判が行われる。そこで、現世で経験していたでたらめな生活が、一つ一つたたかれるのです。これを人間は知っているのです。天知る、地知る、第一自分が知っているのです。だから、死んだ後の霊魂の審判を、絶対に避けることはできないのです。
魂として、何十年かこの世に生きていながら、本当の霊魂のあり方を勉強していなかった。ただ生活のことだけを考えていた。これが間違っていたのです。下着が間違っていたのです。だから、上着も間違っていたのです。
世間では上着のことしか問題にしていません。今の日本人は上着の生活もでたらめです。ましてや下着は間違っているのです。
神とは何かと言いますと、人の命の本当の姿なのです。神が人の中にいるのです。人間は、自分の生活を誤魔化すことは絶対にできないのです。だから、目の黒いうちに、一切を神の前に放り出して、生まれたままの裸で神の前に立つのです。
自分が生きていると思っていることが、一番悪いのです。人は、自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。親が産みたいと思って産んだのではないのです。そうしますと、人間の一生は自分の気持ちによって、発生したのではないのです。それを、自分が生きていると勝手に思っている。これが人間の罪の根本原因なのです。
人間の間違いの原因、善悪の間違いの根本原因、セックスのことを間違えたり、他人との関係について焼きもちをやいたり、約束を破ったり、誤魔化したり、嘘を言ったりする原因は何かと言いますと、すべて自分が生きていると思っているからなのです。
自分が生きているという気持ちがなかったら、焼きも餅を焼かないのです。焼く必要がないのです。嘘をいう必要がない。嘘を言うのは、自分が得をしようと思うからなのです。自分がいい格好をしようと思うから、嘘を言うのです。
自分が生きていると思うのは、ばかばかしいことです。自分が生きているという思想が悪魔です。人間は、悪魔を自分の中に持っているのです。悪魔が人間の中で根をはっているのです。これを殺してしまうには、イエス・キリストの十字架がどうしてもいるのです。
自分の気持ちが、自分をだましているのです。自分の思いが、自分を盲にしているのです。自分が生きていると誰が思うのか。自分がそう思っているだけです。自分とは一体何かということです。
自というのを、『おのずから』と読むのと、『みずから』と読むのでは、意味が正反対になるのです。
私たちは、自分が生まれたのではなくて、『おのずから』生まれたのです。これが本当の自分なのです。『おのずから』というのは、天然自然ということです。人間は天然自然の処置によって生まれてきたのであって、『みずから』の意志によって生まれてきたのではありません。自という文字を『みずから』と読んではいけないのです。『おのずから』と読むのです。
『おのずから』というのは、神に基づいてということなのです。神に基づいて生まれてきたから、神に基づいて生きていくのは当た前のことなのです。これが悔い改めるということなのです。
 

 

bottom of page