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命の本源


宇宙には、命を管理するものがあるのです。例えば、青空があります。太陽が輝いています。太陽の光が、有機的に現れています。これには、原因がなければならないのです。
太陽系の宇宙が、秩序整然と回転していること、物理運動が物質になり、物体になっていることは、驚くべき精密な物理運動によるのです。この宇宙には、人間の常識では考えられないほどの、驚くべき組織性と統一性と、人格性があるのです。
現在の人間の頭では、理解することができませんが、人間は先天性があるからこの世へ生まれてきたのです。理性や良心は、先天性のものです。
宇宙には、「おのずから」という大きいものがあるのです。これを、般若心経では空といっています。しかし、空という言葉の説明が、般若心経ではできないのです。だから、聖書を持ち出さなければならないのです。
人間の理性と良心の働き、魂の本質を管理するものが、宇宙にはあるのです。これを、命の本源といいます。
命の本源がなければ、今、命があるはずがないのです。命を管理するものを、「おのずから」といいます。「おのずから」が、「みずから」としての自覚を持つようになったことが、神なのです。
人間が存在していくためには、存在の原理がなければならないのです。生きているという現象があるためには、原因がどこかになければならないのです。これは、命の管理者が原因であるとしか言いようがないのです。
地球がある以上、地球を地球としている本体があるにきまっているのです。これが神です。物理学の原点です。法律の原点です。すべてのものの根源になるものを、神という以外に言いようがないのです。根本的なものがなければ、現象的なものは現れないということを、知る必要があるのです。
人間が生きていくためには、そのための根本的な原理があるにきまっているのです。これをイエスは、見事に復元してみせたのです。見事にそれを生きこなしてみせたのです。これは、誰でもできるのです。死んでから後があるかどうか分からないというのは、生活だけを考えて生きているからです。
死んでから後のことが、夢幻のように思えるのです。それが、いわゆる地獄極楽のいんちき話のように考えられるのです。
しかし、人間の記憶は残るのです。記憶が残ると言いましても、生活のことから、商売のこと、学問のことまで、全部記憶して死んでいくのとは違います。
常識的に働く記憶は、この世へおいていくのですが、現世に生きていた直感性の記憶はなくならないのです。だから、霊媒を用いて呼び出せば、いつでも出てくるのです。
死んだ人間は眠っているだけですが、やがて起こされる時がきます。この時がこわいのです。生きている間に、神を捉えていたかどうかで、永遠の運命がきまるのです。死んでしまえばそれまでという考えは、現代文明の特徴であって、明治までの日本人には、そういう考えはなかったのです。
もし、人間が死んで、それで終わりであれば、葬式をする必要はないのです。墓を造る必要もないのです。終わりではないから葬式を行い、墓をつくり、法事をするのです。
魂とは、現在、肉体的に生きていて、理性や良心を使っていることです。魂は、仏教では、どうしても分からないのです。大乗仏教一万七千六百巻という膨大なお経の中に、魂という文字が、一字もないのです。
魂は、本当の神の実物を、はっきりつかまえないと、説明ができないのです。
イエスはキリストとされたのですが、彼は地球上に生きていました。ところが、阿弥陀如来は、地球上に生きていないのです。これは、抽象的概念で造りあげた人格であって、実在の人物ではないのです。イエスは、歴史的に存在していた人なのです。
イエスが生きていた状態が、そのまま魂なのです。彼は、霊魂のあり方を、最も正確に、はっきり証明したのです。
人間の肉体は死んでも、魂は死なないということが、イエスの復活によって、はっきり証明されたのです。
現在、人間が、魂が分からない状態で生きていることを、客観的に見ますと、商売をしたり、会社へ行ったりして、生活しています。この状態が、霊魂になるのです。
人生は霊です。生活に関する機能の実体が、魂なのです。霊と魂は、関連しているのです。理性や良心が、肉体的に機能している状態が、魂です。
肉体は灰になります。ところが、生きていたという事実、その記憶があります。記憶は精神的なものであって、消えてしまわないのです。
人間は、どこかから来たのです。だから、生まれてきたと言うのです。死んでいくというのは、どこかへ行くのです。今いるのは、結果なのです。この結果が現れるためには、原因がなければならないのです。最も分かりやすいことで言いますと、赤ちゃんが生まれて、二十四時間以内に、お母さんのお乳を飲みます。
乳の飲み方を、誰が教えたのでしょうか。赤ちゃんは、乳の味を知っているのです。だから、赤ちゃんが乳を飲むというのは、生まれるまでに、そういう心構えができていた。本能的な生命力が、備わっていた。味を知る力、感覚する力があったのです。
赤ちゃんは、胎内にいる間に、母親の血液の流れを、音楽のように聞いていたという報告があるのです。
そのように、人間は、この世に生まれる前に、生命意識があったのです。生命意識があって、味わう力、聞く力があるのです。五官の本質機能は、生まれる前からのものなのです。
記憶があるということは、信じても、信じなくても、消しようがないのです。これが、魂の本性であって、肉体的には消えてしまいますけれど、心理機能的には、なくならないのです。だから、心霊科学のようなやり方で、死んだ人の霊をよび出して聞くことができるのです。これは、科学的に実験できるのですから、信じないといっても、事実なのです。
生きている間は短い時間ですが、死んだ後は、永遠です。現在経験しているのは、ごくわずかな間です。八十年か九十年で、終わりなのです。
肉体が、現世から消えることはありますが、記憶が消えることはないのです。どういう意識で生きていたかが、問題なのです。
人がこの世へ来たのは、命を経験するためです。命を正しく経験しますと、死なない命をつかまえることができるのです。
 

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