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自分の外に出る


現在皆様が生きておいでになる命は、必ず死ぬに決まっている命です。100%死ぬに決まっている命なのです。そういう命を自分の命だとお考えになっていますと、皆様は完全に死の虜になってしまいます。もう死神にとりつかれてしまっているのです。
そこで、自分が現在生きている命に対して、基本的な疑いを持つことです。疑いというのは、いわゆる人を疑うような意味での疑いではなくて、自分自身の生命の実質に対する疑問を持つことが必要なのです。
現在の文明を、魂を盲目にしてしまっている。命の本質が考えられないような生活形態を、皆様に押しつけているのです。大学へ行かなければ世間に通用しないという常識があるために、子どもたちが試験地獄でさんざん苦しめられているのです。これは文明の悪弊です。
皆様が文明お用いるのは結構ですが、文明の虜になるのは、ばかばかしいことなのです。文明は皆様のためにあるのです。人間が文明のためにあるのではありません。皆様は文明を使いこなせばいいのです。科学を使えばいいのです。自分が現代文明、専門学という概念の奴隷になる必要はないのです。
悟るというのは何か。文明意識に圧倒されて、文明がなれば生活が成り立たないと考えている人には、その感覚をまず解脱することが必要です。これが悟りです。
人間が現在生きているのは、自分が生きているのではない。生かされているのです。自分が生きたいと思って生きているのではない。空気や水を造る力のない人間が、自分の力だけで生きておれるはずがないのです。
命は自分の力によるのでなくて、天然自然によるのだということになりますと、自分自身が自我意識によってだけ物を考えるということは間違っているということに、気がつかれるでしょう。これが悟りなのです。この気持ちがあれば、釈尊が見た明けの明星が分かってくるでしょう。自分自身の命の実質、実体が何であるかが、分かってくるのです。
人間は森羅万象と接触しなければ生きておれません。森羅万象は人間が生きていることの根底なのです。森羅万象をどのように認識したらよいのか。この見方が正しいかどうかが、命に対する認識が正しいかどうかの分水嶺になるのです。
地球が造られたのはなぜかということです。こういうことを、日本人は全く考えようとしないのです。地球がなければ、日本という国もないのです。又、皆様という人間が生きているということもない。従って、地球が造られたことの大原則が明瞭になることが必要です。
現在の時間、空間はプロセスにすぎないのです。現在の地球は不完全なものです。病気、地震、台風、早魅、飢饉があり、人間が死んでいくのです。人間も地球も、非常に不完全なものです。教育はこんなものが完全なもののように教えていますが、これが間違っているのです。もっとスケールの大きい感覚をお持ちになって、天地がなぜ造られたかということを、お考えになることです。
神とは何か、命とは何か、人間がなぜ地球に生まれてきたのかという根本原理を捉えようとなさるためには、今までの自分の考えを解脱する必要があるのです。これが悟るということです。
今までのご自分の考えを頭に置いたままでは、とても前進しません。その意味で、般若心経によって、五蘊皆空を悟ること、色即是空を見極めることが、どうしても必要なのです。
人生は皆様が常識で判断していらっしゃるようなものとは違います。地球は日本人が島国根性で考えているようなものとは違うのです。歴史の流れとは何なのか。天地万物の正体は何なのか。こういうことを知るためには、人間の常識や記憶が、大変に邪魔になるのです。皆様方の世界観や価値観のスケールが小さすぎることに気づいて頂いて、考え方の全体を、大きくすべきなのです。
皆様は目の黒いうちに、生きていることの実質をつかまえなければならない責任があるのです。これは皆様の霊魂に対する責任なのです。
皆様はこの世を去るに決まっています。この世を去るまでの間に、生きていることの実質が、神であることを知る必要があるのです。神を「おのずから」というのです。お天とうさんと言ってもいいでしょう。
「おのずから」の真諦を見極めるためには、人間の常識が邪魔になるのです。そこで般若心経によって、究竟涅槃を悟るのです。涅槃とは自分自身が消えてしまうことです。自分の意識が消えてしまうのです。消えるといっても、跡形もなく消えるわけにはいきませんが、とにかく自分の意識を第二、第三のものと考えて、第一義を考えるのです。第一義は、自分が生きているよりもっと大きいことなのです。
自分の中に、自分よりも尊いものがあります。これを悟るためには、今までの考えを解脱する必要があります。これが般若心経が皆様にアピールしていることなのです。
死なない命を見つけるためには、死ぬに決まっている命を捨ててしまう必要があるのです。そして、般若、上智をつかまえて頂きたいのです。
イエスが現世に生きていた自分を捨ててしまったという事実、神と一緒に生きていたという事実、神において生きていたという事実を、御霊によって教えられることです。
これは誰でもできることです。自分自身の主観意識を捨てるという気持ちさえあれば、誰でも経験できるのです。決して難しいことではありません。荒行をするとか、千日回峰をしなくてもいいのです。
したい人はしてもいいでしょう。大学へ行っても行かなくても、どちらでもいいのです。問題は、今皆様が生きている命は、必ず死ぬ命だということです。必ず死ぬ命を脱ぎ捨てなければいけないのです。死んでしまうに決まっている命を、自分の命だと思っていることが、間違っているのです。
イエスが私たちに言っていること、新約聖書が言っていることは、心を更えて新にせよということです。心を更えるというのは、心のあり方を土台から更えるのです。生まれながらの心ではないのです。世間の常識とは違います。世間の宗教心でもない。自分が救われたいとか、幸いになりたいという気持ちを、全くやめてしまうことです。
死んでしまう自分に、縁を切るのです。世間の人が、誉めても誉めなくても、認めても認めなくても、関係ありません。全く自分自身の外へ出てしまうのです。そうすれば、イエスと同じような心境になれるでしょう。
自分の外に出てしまう。これが心を更えることです。自分の心ではない心を持つのです。
自分の心の外に出るとどうなるかと言いますと、自然のあり方になるのです。時間、空間が持っている佇まいがあります。天地万物は時間、空間の本質です。天地万物が持っている本質が、そのまま神を証しているのです。
天地万物の心と同じ心になる。そうすると死がなくなってしまうのです。もちろん肉体は老化します。やがて肉体は使えなくなるでしょう。肉体が使えなくなることは、死ぬことではありません。魂が別の生き方をするだけのことです。これは、死ぬのではありません。当たり前のことです。自然現象です。
そんなことに頓着する必要はありません。要するに、世間の常識、知識が間違っているのです。宗教を信じても信じなくても、どんな経験をしても、人間の考えは一切だめです。
皆様の命を新しくするのです。時間、空間の本質と、皆様の命が同化すればいいのです。時間、空間の本質は、神の御霊の働きですから、神の御霊の働きと、皆様の霊魂が一つになれば、とこしえの命はそこにあるのです。
これは宗教の教えではありません。心を更えて新にするというのは、それを断行することなのです。釈尊が空だと言ったのはそれなのです。日本の仏教ではだめです。いくら世間に通用しても、神の前には一切通用しません。
時間、空間の本質は、神からきているのですから、時間、空間の本質と、皆様の魂が一つになれば、死なない命を経験することができるのです。

 

 

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