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時間と空間


色即是空の色は形のことです。物として存在するものは、だいたい色を持っています。色という言い方で、物質的に存在するすべてのものを言っています。これは色気の色とは違います。
物質的存在は、本当にあるのかということです。現在、中学校でも、物理運動、即ち原子が活動するから物質があるということを教えています。物質があるのではない。物理運動が物体を形造っているのだということなのです。
そこで、形造るということがなぜ必要なのかということです。形造るという表現をしなければ、物の本質を人間の心にアピールすることができないからです。
人間は肉体をもって生まれたので、肉体的な意味での五感という意識に捉われているのです。肉体の五感という感覚は、生活感覚なのです。ところが厳密に言いますと、生活感覚と生活意識は違うのです。
生活感覚は、甘いものを甘いと感じる感覚です。お菓子を食べる。果物を食べるというのは、意識の問題なのです。感覚と意識は良く似ているのですが、感覚は生まれる前の命の本体をとらえているのです。生まれる前の命とは、「おのずから」ある命、大自然の一部としての命です。感覚はそれを正確に認識しています。
甘いとか、辛いという感覚は、百人が百人共、万人が万人共、同じです。生まれる前の人間の感覚は、万人一様です。
ところが、この世に生きている人間の意識は、万人一様ではありません。百人百様で生きているのです。これは迷いです。人間の意識というものが迷いなのです。
本来宇宙は、無限無窮の大空間であって、銀河系の宇宙にはブラックホールが、二つ三つあるといわれています。この宇宙に、物質があるかないか分からないのです。アンドロメダ星雲は、ほとんどガス体なのです。太陽系宇宙でも、地球の周辺にあるものは物理的に存在しているものもありますけれど、地球から離れてしまいますと、太陽がガス体であるように、海王星、冥王星は半分はガス体で、半分は液体らしいのです。
従って、地球のような、時間、空間が厳然として存在しているものは、地球を中心とした一部の惑星だけなのです。
本来、宇宙全体は無始無終であって、時間はないのです。従って、空間というものもない。ところが、地球にだけは、時間、空間が厳然として存在している。これはどういう意味でしょうか。ここに、般若心経の色即是空、空即是色という言葉の持っている非常に重大な意味があるのです。
こういうことは、今の学問では、取り上げないのです。取り上げないという規定を、今の文明が造ってしまっているのです。従って、時間、空間の本質が何であるか、分からないのです。
人間は時間があると思っているが、時間があることを科学的に証明する方法はないのです。又、物質があるということも、科学的に証明する方法がないのです。
物理運動があることは証明できます。原子爆弾ができる、水素爆弾ができるということは、実は、物質が存在していないことを証明しているのです。
色即是空は、当り前のことなのです。物質が空であることは、当り前なのです。なぜ空である物質が存在するかというと、人間の業(ごう)に非常に大きい関係があるのです。原子の運動がなかったら、物質はないのです。
原子の運動はありますが、物質はないのです。これが実は、生命認識の根底に、重大な関係があるのです。物質がないということがはっきり分かりますと、死なない命が分かるのです。
イエスが死を破ったというのは、歴史的事実なのです。日曜日というのは、イエスが死を破った復活記念日なのです。日曜日が、今の人間に全然分からないのです。アメリカ人にも分かっていないのです。アメリカ人は宗教行事としての日曜日は知っていますが、日曜日の本質についてはほとんど無関心です。とにかく物質がないということは、いくらでも証明ができるのです。
宇宙は本来物質がない世界であって、無始無終です。ところが地球にだけ森羅万象が存在している。地球というのは、宇宙の特殊現象なのです。このような特殊現象が、太陽系宇宙にどうして存在するのか、このことを勉強するためには、キリスト教ではない聖書を勉強するしかないのです。
今の学問ではだめです。時間、空間の本質が説明できないからです。だから、文明の中に閉じ込められたら、死んでしまうのです。
人間は、死にたくないと考えていながら、一方において死なねばならないと考えています。これは命に関する意識が束縛されているからです。死にたくなければ、死にたくないという方向で、自分の命を見ればいいのです。見られるのです。
観自在菩薩というのは、そのやり方の一つなのです。死にたくないと思うなら、そのように考えるべきなのです。死にたくないという本心と、本願を貫き通すような熱意があれば、死なない命を見つけることは必ずできるのです。
死を破った男がいるのですから、死を破った人間がいる以上は、私達も死なない命を見つけることができるにきまっているのです。ただ考え違いをやめればいいのです。これは観念論とは違います。自分の意識を乗り越えてしまえばいいのです。死なねばならないというその生命意識をのりこえてしまうのです。そして、本来の生活感覚と同じ意識をもつのです。
甘いと感じることは、万人に共通した感覚です。これは本来の意識です。これを禅では自性と言っています。この言い方は、観自在と同じ意味です。本来の人間の命の本質は、死なない命のあり方を直感的に知っているのです。ぜんざいを食べた時に甘いと感じます。甘いと感じるのは、肉体的ではなくて、魂で感じているのです。これが分かりますと、般若心経の究竟涅槃が分かるのです。これが分かりますと、死なねばならない意識から解放されて、死なない命を手でつかまえることができるのです。
 

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