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地獄

 

地獄とはなにか。これは、人口に膾炙していることですが、内容がなかなか分からない。宗教では明確に答えることができないと思われます。これは、宗教の問題ではないのです。
映画でも、天国と地獄という題名のものがありました。それほど人口に膾炙していながら、内容がさっぱり分らないのです。
これにつきまして、新約聖書マタイによる福音書の始めの方で、現代の人間が生きているのは、神が畑を経営しているようなものだ。人間という種をまいて、それを育てている。実を結ぶものと、結ばないものとを、選別している。こういうたとえをいっているのです。 実を結んだものは倉に入れ、実を結ばないものは全部消えない火の中へ放りこむといっているのです。これが天国と地獄なのです(13章24節~43節)。
人間が、現在生きているのは、望んでこの世へ生れたのではない。生きていたいと考えた所で、空気や水がなければ、生きておられないのです。従って、人間存在は、自立自尊することのできない条件で、生かされているのです。
人生が、本質的に私のものではないことは、明瞭なことですけれど、この明瞭なことが、なかなか納得できないのです。
自分の人生は、自分自身が主体性を持っているのですけれど、自分のあり方が、そのまま人生の主体であるとはいえないのです。主体性は持っているが、主体そのものではないという、奇妙な状態なのです。これは、哲学的にものを考えるような気持ちがないと、なかなか分らないのです。
人間は、畑にまかれた種のようなもので、育って、実を結ぶ場合は、倉に入れてもらえる。実を結ばないものは、全部消えない火の中へなげこまれるのです。黙示録の終りの方になりますと、火の池の中へ放りこまれると書いているのです。
現在生きている人間が死にますと、三つの状態に分けられるのです。一つは海、もう一つは死、そして黄泉(よみ)という三つがあります。死んだ亡霊は、この三つの中のどこかへ収納されることになるのです。
ところが、海と、死と黄泉は、ことごとく死人を吐き出すとあります。これは、現存する地球が、終焉した後のことです。
今の地球は、物理的に存在するものですが、物理的に存在するものは、やがて消滅するに決まっているのです。地球が消滅した後に、死んだ人間の魂がどうなるかということを、黙示録で説明しているのです。
地球が始ってから、地球が終るまでの、全体を鳥瞰する思想を持つのです。鳥が空を飛んで、下を見おろすような見方をするのです。地球存在全体を、鳥瞰するような形で、見ますと、こういうことが分るのです。
これは、いわゆる近代学とか、現代学とかいう小さなスケールとは違うのです。普通の人間の、人生観とか世界観では、とても捉えることができないものなのです。
宗教は、学問と同じレベルの文化概念の一つであって、科学、哲学、法律、経済、医学という専門学は、部分的ということです。鳥瞰的に見ることができないのです。
地球が存在しているのは、専門的に存在しているのではないのです。人間が生きていることも、専門的に生きているのではないのです。
弁護士は、一生弁護士でなければならないわけではないのです。農業をしている人は、終生、農業者でなければならないことはない。農業者が、工業者に転職することは、充分にありうるのです。弁護士が商売人になり、商売人が、弁護士になることは、いくらでもあるのです。
欧米社会では、転職は、日常茶飯事のことです。ですから、専門的な学問をしたからといって、人生全体が分るわけではありません。
地球が始まった時にどういう原理で始まったのか。始まったものは、終りがあるにきまっているのです。終了時には、どういう原理で終わるのか。新約聖書は、それを書いているのです。これが、キリスト教では分らないのです。
キリスト教は、キリスト教の教義を用いて聖書を、宗教の道具に使ってはいますけれど、キリスト教は、キリスト教の神学、又は教学に基づいて、聖書を説いているのであって、聖書に基づいて人間を見ているのではないのです。
教義は、キリスト教の専門学であって、専門学に基づいて聖書を説きますと、分りよいのですが、本当のことは分らないのです。
宗教は地球の存在について、責任を持つことができないし、人間の命について資性を持とうとしないのです。従って、天国や地獄の問題を、徹底的に解明しようとは考えないのです。
宗教は結局の所、営業です。商売です。ところが、聖書の本質は、政治、経済、民族や国家に、えこひいきを全くしません。ありのままに、率直に、あるものはある、ないものはない、イエスかノーを明解に答えているのです。
命は、人間のものではありません。人間は自分で生れたいと思って生れたのではない。人間が地球を造ったのではないし、空気を造ったのでもない。人間が太陽を造っているのでもない。ですから、人間が生きているということは、人間自身の力、知恵ではないことは、明白な事実なのです。従って自分を、純粋に、客観的に見る必要があるのです。
人は畑にまかれた種です。地球という畑に、魂という種がまかれました。実を結ぶ魂と、実を結ばない魂とがあるのです。実を結ぶ魂は、非常に少ないのです。めったにないのです。
日本という国の紀元には、非常に幽邃なことがらがあるようです。天皇制という問題です。地球全体から物を見ることをしないと、天皇制の本当の価値が、分らないのです。
魂は地球にまかれた種です。魂は人格があり、主体性を持っています。主体性を持っていますから、自分自身の主体性を、どのように理解し、どのように用いるかによって、それぞれのあり方が違ってくるのです。つまり、実を結ぶか、結ばないかということになるのです。
人の魂は、地球にまかれたものであって、この世で生活すること、文明を営んで、満足することが、目的ではないのです。
現在の学問は、現世で生活を営むためには、非常に役立ちます。しかし、魂の実を結ぶという問題になりますと、役に立たないのです。
魂の実というのは、部分的な問題ではないのです。従って、専門学でいくら考えても、魂の実は分かりません。人間存在の全体学、人間が生かされていること、即ち、ザ・リビングに対する本質的な勉強をする必要があります。
人間が生きていることは、人間の絶対を意味するのです。ザ・リビングが、絶対の本質なのです。これを究明しますと、始めて、霊魂の問題が分ります。そうしますと、霊魂はどこからきて、どこへ行くのか、何のために現世に生きているのか、おのずから分るようになります。
この世で生きているという小さな気持ち、自分が生きているという小さな感覚にかじりついていたら、絶対に実を結ぶことはできません。種をまいた人の意志に従って実を結ぶのでなかったら、だめなのです。
米や麦なら、だいたい実を結びます。それでも、天候の状態によって、実を結ばないものがあります。まして、人間の霊魂になりますと、実を結ぶことは、非常に難しいのです。
例えば、釈尊のような人でも、本当の実を結んでいないのです。彼は究竟涅槃を言いました。空をいいましたが、空というのは、実を結んでいる状態ではないのです。実を結ぶために、重要な必要条件を、はっきり明示しただけのことです。
本当に実を結んだといえるのは、イエスだけです。彼は復活したのです。死んで、三日目に、甦ったのです。完全に死んで、三日目に甦った。現在なお生きているのです。
宗教で言うように、あっちにもこっちにもあるという甦りとは違います。ライズ・アゲンという例は、いくらでもあります。しかし、イエスの場合は、完全に死んだものが、三日目に、新しい永遠の命をもって、生きかえり、今なお、永遠の命が存続しているのです。こんなことは、イエス以外にはないのです。
これは、どうしても、学の対象になるべきものなのです。当然、全学の対象になるべきものなのです。現代の学を統括する学としての全体学が、勉強しなければならないテーマなのです。ザ・リビングとしての全体学が、なければならないのです。
ユダヤ人は、専門学の大家です。ノーベル賞は、専門学に与えられる賞であって、魂の実を結ぶこととは違うのです。現世に生きている人間として、専門的に功績があったかどうかという程度のものです。これは、人間社会には通用しますが、永遠には通用しないのです。
人間社会は、やがて終ります。必ず終ります。もう終りかけようとしているのです。過去数十年間に、各国が、原水爆実験を、2500回以上もしました。その結果、成層圏には、放射性物質が相当たまっているのです。雨が降るたびに、ストロンチウム九十のような毒素が降り注ぎ、人間の脊髄に蓄積しているのです。
ストロンチウム九十は、半減期が九十年もかかるのです。赤ん坊の時に、これが入ると、死ぬまでその毒素から逃れることはできないようです。
脊髄が汚染されれば、脳の働きも悪くなるでしょう。脳細胞が犯されるでしょう。そうなると、脳波の作用は、かなり低減されるのです。
人間は、もうこれ以上発展することができないのです。精神的に、心理的に、こういう文明ができてしまったのです。食糧も、人口増加に追い付かなくなっていますし、やがて、石油もなくなるでしょう。人間文明はそれほど長いものではないのです。
このように、世界を鳥瞰する形をとりますと、人間は、今までのあり方で生きていても、しかたがないのです。やがて死ぬにきまっているのです。
人間はこの地球上へ、生活するために生れてきたのではない。実を結ぶために生れてきたのです。霊魂の実を結ぶために、生れてきたのです。
死なない命をつかむために、生れてきたのです。永遠の命を、どうしてつかまえるのか。これが人間に与えられた、唯一、最高のテーマなのです。
実を結んだものは、倉へ入れられる。神の倉です。このことを、極めて大いなる限りなき栄光と、パウロは言っています。言葉で言い現わせない、大きな栄光です。これが、本当の栄えなのです。
イエスは、復活したことによって、極めて大いなる重き栄光の実体を、見せたのです。
人がこの世に生きているのは、生活するためではないのです。生活していた所で、しかたがない。ただ死ぬだけなのです。
そこで、現世で目が黒いうちに、実を結ぶような勉強が、できるかどうかなのです。実を結んだ人は、天国に入れられ、実を結ばないものは、地獄へ放りこまれることになるのです。
 

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