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景色

 

人間が肉体的に生きているということは、実は、本当の命ではないのです。これは経験するための命なのです。経験するための命と、本当の命と二つの命があるのですが、人間は今、経験するための命を経験しているのです。これを生きているのですが、これは本当の命ではないのです。
人間が肉体的にものを考えますと、何が善で何が悪か、さっぱり分からないのです。だから般若心経では五蘊皆空と言っているのです。
人間が現世に生きて考えている意識は、必ずしも正当ではない。ほとんど正当ではないのです。そこで、現世に生きている意識のことを顛倒夢想と言っているのです。逆立ちしている夢のような考え方だと言っているのです。
遠離とは、そういう考え方を遠く離れると言っているのです。生きている気持ちを解脱する。捨ててしまって、究竟涅槃をする。
涅槃とはどういうことかと言いますと、サンスクリット語では、ニルバーナーと言います。これは、冷えて、消えてなくなることを言います。ろうそくの火が、風によって消えてしまう状態を、涅槃と言います。
人間が今生きている命は、ろうそくの火のようなものであって、風が吹けば簡単に消えるのです。病気とか、火災とか、交通事故、地震、津波によって、簡単に消えるのです。
この肉体の命を命だと思っているのが間違っているのです。
まず人間は仮の命を経験しているのです。その間に、本当の命をつかまえることが必要です。どうしてつかまえるかと言いますと、例えば砂糖をなめると、甘いという感じがします。甘いという味は何であるか。味とはどういうものか。これは医学でも哲学でも、科学でも説明ができないのです。実は、これが命なのです。甘いものを甘いと感じることが、魂の作用なのです。人の五官は、魂の生き方がそのまま現れている。人が生きているということは、五官が命を経験していることなのです。
赤い花を見ると赤く感じます。広い空を見ると広いものが感じられる。山があり、川があり、森を見ますと、すばらしい景色が感じられます。
一体、景色とは何でしょうか。これが命の本体です。宇宙の命の本体が、景色になって人にアピールしているのです。宇宙の命の本体が、人に語りかけているのです。
景色を見ることを、観光と言います。景色を見るという形において、宇宙の光を見ているのです。宇宙の光とは、命の光なのです。これをつかまえたらいいのです。
花がきれいだと思える。きれいとはどういうことなのか。おいしいとはどういうことなのか。なぜおいしい、きれいと思えるのだろうか。死なない命があるから、きれいだと思うのです。死なない命が舌で感じられるから、おいしいと思うのです。
霊魂がこの世に生きていて、命を経験しているのです。魂は五官の働きによって証明されるのです。魂の働きが現世において、目を通し、耳を通し、鼻を通し、舌を通して、宇宙の味わいを、あるいは形を見ているのです。これが、現世において、命を経験しているということの内容、実体なのです。
一体、美しいとはどういうことなのか。美味しいとはどういうことか。自分の魂が何を感じているかということです。人の魂に呼びかけている、宇宙人格があるのです。命の本源、「おのずから」という本源です。「おのずから」という天然自然の本源が、みずからとなって現れている。これが神なのです。「おのずから」あるべきものが、「みずから」という自覚をもっているのが、神なのです。
宇宙に位があります。宇宙の位が、太陽光線や自然に現れているのです。太陽の暖かさに現れています。雷鳴の森厳さに現れているのです。
そのように、人の五官というものは、生きている状態において、大自然と接触しているのです。大自然と接触しているということは、死なない命に触れているということなのです。
まず必要なことは、空を感じることです。現世に生きていることが、空なのです。自分がひとかど物が分かったようなつもりでいますけれど、実際は生活上の常識であって、本当の知恵ではないということです。これをまず悟ることです。
自分は命については何も知らないということを悟ることが、玄関に入ることなのです。現世の生活は経験したけれど、命については何も知っていないということを感じることが、色即是空、五蘊皆空なのです。
般若心経を通して、自分は何も知らないということが分かることを、悟ると言うのです。悟りを開きますと、初めて、自分の理屈を言わないで、素直に、天地自然に頭を下げようという気持ちになるのです。これが、聖書を学ぶことなのです。聖書を学ぶということは、何も言わずに神に頭を下げることです。
命がそのまま神です。心臓が動いていることが神なのです。これをつかまえたらいいのです。これが、永遠の命をつかむ奥座敷になるのです。

 

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