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神の前


皆様が本当の命を掴みそこなっている原因はなにかといいますと、神に接する気持ちが、分かっていないからです。
神に接したいという気持ちはあるでしょう。神に接触したいという気持ちはありますが、神に接触するためには、接触する心構えがなければならないのです。
皆様は現世にいる自分の心構えのままで、神に接触できるとお考えになっています。今までの記憶を持ったままでできるというお気持ちがあるようです。
聖書を長年勉強している人がそうです。ましてや、聖書を二、三年勉強したとか、五、六年勉強した程度では、神に接触する気持ちが分かるはずがありません。
パウロは心を更えて新しくせよと言っています。更えてというのは、心を変更することとは違います。右に向いていたものを左に向けるのとは違います。チェンジ(chenge)心を更えるというのは、レニュウ(renew)やり直すという意味です。新しく造り直すということです。
これが分からないのです。やれないのか、やらないのか、やらないのではなく、多分やれないでしょう。
神の前に出るということが、現世に生きている人間にはできないのです。神の前に出るという気持ちが持てないのでしょう。偉い人の前で物を言うような気持ちで、神の前で
物を言っている。これが間違っているのです。
現世で、人間が人間に物を言うような言い方ではだめです。例えば皆様が天皇陛下の前で物を言うとしたら、少しは変わった気持ちになるでしょう。神に物を言う場合は、それでもだめです。天皇陛下の前で物を言うのは、姿勢を正しくし、かしこまって言えばいいのです。
神の前ではそれではだめです。かしこまって言ったのではいけない。かしこまらずに、本心から言うのです。しかもその本心というのは、今までの腹のどん底にないことを言わなければならないのです。これができないのです。
はっきり言いますと、心にないことを言わなければならないのです。皆様の心には、本当の真心がありません。現在の人間は死んでいく人間です。死んでいる人間です。死んでいく人間には真心があるはずがないのです。死んでいく人間には、真心は必要ないのです。
皆様は、真心で考えたことがないでしょう。その必要がないからです。ところが、神に対しては、真心でなければだめです。宗教の神なら、ただ真面目でいいのです。
本当に生ける誠の神に物を言うのは、宗教の神に物を言うのとは違います。例えば、自分自身の本心に物を言うのです。お稲荷さんを拝むような気持ちで、自分の本心に物を言  えるのでしょうか。お稲荷さんなら誤魔化していたらいいのです。商売繁盛、家内安全と言っていたらいいのです。お稲荷さんなら、それで満足しているでしょう。千円をあげておけば、それで満足してくれるのです。
ところが、自分の本心には、千円札一枚くらいではだめです。お稲荷さんと本心とはそれだけ違うのです。
神には、自分自身に言うより、もっと真面目に言わなければならない。これができないから、神が分からないのです。神と一緒に生きることが、なかなかできないのです。
皆様は神に生かされていながら、神を生きることができないのです。その要領が分かっていないのです。だから、本当に聖書を信じることが、なかなか難しいのです。
心を更えて新にせよとパウロが言っていますが、更えることができないのです。更えるとは直すという意味です。心を持ち直す、前のものを廃棄して、新規に作り直すのです。頭を下げるとか、真剣にするとかいうのではないのです。
聖書の勉強というのは、真剣にするだけではだめです。自分自身の命よりもっと大切な勉強をするのですから、命を問題にしているようではだめです。
命以上のものを与えられるのですから、命を差し出すくらいのことではだめです。皆様の命はどうせなくなるものですから、捨てるのは当たり前です。
皆様が今持っている命は、なくなるに決まっている命です。なくなるに決まっている命を自分の命だと思って握り込んでいるでしょう。そういう気持ちを捨ててしまうのです。捨ててしまうと初めて、生きていることの本当の姿が見えてくるのです。その心で神をつかまえるのです。
皆様が今生きているのは、やがて死ぬに決まっている命ですから、それを捨ててしまうのです。捨てるというのは、肉体の命を捨てる、自殺することではありません。自分が大男と思っている気持ちを捨てるのです。自尊心も、自立心も、プライドも、記憶も経験も全部捨てるのです。
皆様の経験も、学歴も、記憶も、死んでしまえば何の役にも立ちません。捨ててしまうしかないのです。捨ててしまって、今生まれた赤ん坊のような、素直な気持ちがあれば、欲も得もない全く無心になれるでしょう。
この気持ちになれば、神の前に出られるのです。相手は神です。命の主です。皆様に命を与えている神です。命を与えている神をつかまえるのなら自分の命に対するあらゆる先入観を捨ててしまって、命そのものに向き直るのです。自分の命の実態に向き直るのです。そうすれば神が相手にしてくれるのです。
悔い改めて福音を信じよとは、それを言っているのです。心を変えるとは、心を持ち直すことを言っているのです。
皆様は生かされています。生かされている命の実態が神です。皆様が生きている命の実質は、そのまま神です。
皆様は自分自身の命の実質を知らないだけのことです。それを知ればいいのです。それを受け取るためには、現在までの自分の経験を、全く棚上げにしなければいけないのです。
人間の経験は、予想外の方に向いています。自分自身が良い位置に立てるような、又、自分が得をすることを容認する癖があります。この癖を捨てるのです。それは死ぬに決まっている自分の命がしていることです。それを捨てたら、自分がなくなってしまうかというと、なくならないのです。
むしろ、今までの自分の質が変わって、立派なものに造りかえられるのですから、損をするのではない。むしろ、とてつもない大きな得をするのです。
ただ観念的な自分のプライドを捨てるだけのことです。これが悔い改めることです。そうして福音を信じればいいのです。
理論的に、いくら聖書を勉強してもだめです。信仰は理屈ではありません。命の問題です。自分の命がイエスの命と一つになること、これが必要です。
命は一つしかありません。皆様は自分の命を持っているつもりでしょうが、それが間違っているのです。自分の命を持っている人は、必ず死にます。命を持ち直すのです。イエスは主なりという方法で持ち直すのです。
イエスが主であるということを口で言い現わすということは、イエスの命を自分の命にしてしまうことです。イエスを自分の主とすることは、イエスの命を自分の主にしてしまうのです。
命が68億あるのではありません。命は一つしかありません。イエスの命しかないのです。命はたった一つ、イエスの命しかないのです。このことさえ分かれば、簡単に救われるのです。
皆様が救われようと考えてはいけいない。考えてもだめです。皆様方の命はすべて死んでしまっているのです。イエスの十字架によって、個人の命はなくなっているのです。従って、イエスの十字架を信じるというのは、十字架によって、一般人の命は神の前になくなっていることを認識することです。これが十字架の贖いです。
十字架の贖いによって、誰もかれも、キリスト教信者であろうがなかろうが、聖書の勉強をした人でも、しない人でも、十字架によって、すべての人の命はなくなっているのです。これが信じられる人は幸いです。再び死なないからです。
イエスの話を聞いたことのない人でも、聖書を全く知らない人でも、その人の命は十字架によってなくなっている。ましてや皆様においておやです。
皆様の命ははっきりなくなっています。従って、皆様は自分が救われたいと思う必要は全くありません。ただイエスが復活したこと、彼がとこしえの命を持っていたことがはっきり分かればいいのであって、イエスの復活の命がそのまま皆様の命になっているのです。これを黙って受け取ればいいのです。
 

 

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