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神の御名とイエスの御名

 

キリスト教の教義と、聖書の根本と、どのように違っているかと言いますと、キリスト教では、ザ・
ネーム・オブ・ゴッド、ザ・ネーム・オブ・ジーザス、つまり神の御名と、イエスの御名が分かっていないということです。
新約聖書ヨハネによる福音書一章九節に、「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れた者、即ち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」とあります。
彼を受け入れた者とは、イエスと、いう人がキリストである、造り主であること、神の代理者として現われたことを承知したという意味なのです。イエスに対して同意したというのです。
これはどういうことかと言いますと、キリストを受け入れるというのは、彼の名を信じることなのです。信じるとはどういう場合に用いるかと言いますと、そのことに基づいて考えることです。受け入れたことに従ってでなければ考えないことが、信じることです。
イエスを信じると言いますと、イエスに基づいてでなければ何も考えないのです。イエスに基づかない考え方を、一切しないのです。神を信じるというのは、神に基づいてでなければ一切考えない。人間に基づいて考えることをしないことが、信じることです。
不思議なことに、全世界の十数億のキリスト教信者の中に、イエスの名を信じている人がいないのです。個人としては、一人や二人の人が気づいているかもしれませんが、グループとして気づいている団体はないようです。イエスというのは、アラミ語でエーズースーと言います。ヘプル語でエーシューアーと言うような言い方になります。これはどういうことかと言いますと、エホバの働き、エホバが救いという意味になるのです。
エホバとは何かと言いますと、エイエイ・アッシュル・エイエイというヘブル語からきています。エイエイ・アッシュル・エイエイを英語でアイ・アム・ザット・アイ・アム (I am that I am)と訳しています。
エイエイと言う言葉は、ただ私は有るという言葉ではなくて、私は有りたいとか、有るべきだとか、有ろうとしているという意味になるのです。つまりアイ・アム(I am)ではなくて、アイ・ウィル・ビー(I will be)ということになるのです。アイ・ウィル・ビーでも不完全ですが、英語ではそう言わなければしょうがないでしょう。つまり、アイ・アム・ザット・アイ・ウィル・ビー(I am that I will be)と言えばいいのです。
アイ・ウィル・ビーということは、実は本当の神が現われていないと言うことになのです。これは未来に属する神の完成を意味するのです。神はまだ完成していないのです。未完成の神なのです。これがキリスト教では分からないのです。
キリスト教の人々は、神が完成していると思っているのです。ところが聖書の神は、未完成の神なのです。こんなことを言ったらキリスト教の人々は私を大異端である、大悪魔であると言うでしょう。しかし聖書を正確に読んでいくと、そういう結論になるのです。神はこれから完成することがあるべきものなのです。これは地球自体を指しています。又人間自体を指しています。太陽系自体といっても言いのです。
現在の太陽系はまだ完成していないのです。今の地球はまだ完成していないのです。これは神の未完成をそのまま現わしているのです。
神の名前が、そのまま地球のあり方を示しているのです。アイ・アム・ザット・アイ・ウィル・ビーというのは、神が自ら未完成であることを宣言しているのです。これは大変なことなのです。こんなことはキリスト教では分からないのです。
それでは、神の存在は何かと言いますと、花を咲かせていることが、神の存在なのです。花が咲いていることが、神の御霊の働きであって、これは宇宙のエネルギーです。宇宙のエネルギーが、神の御霊として働いているのです。
エホバの御霊出づる時、百物皆造られるという言葉がありますが、神の御霊が働き出すと、花は咲くし、果は実るのです。いわゆる電場、磁場の働きが、そのまま神のネームの働きであると言っているのです。
神の御霊というのは、電気の御座のことです。神の御名というのが、プラスのエネルギーの本源です。
エホバとは何かと言いますと、花を花としている力のこと、太陽光線を太陽光線としているエネルギーのことです。プラスのエネルギーがそのままエホバなのです。プラスのエネルギーの根源、命の根源が、エホバなのです。
鼻から息を出し入れしていることが、エホバです。目が見えることがエホバです。神の命が人と一緒に働いているのです。これをインマヌエルと言います。
神の命、神のネームが私と一緒に働いていることを、生きているというのです。これがアイ・アム・ザット・アイ・ウィル・ビーになるのです。私達の目は今見えるだけではなく、未来を見ようとして働いているのです。私達の精神は、いつでも前に向って働いているのです。明日を考えずに生きるわけにはいけないのです。明日を考えるのが今日の仕事になっているのです。
人の行動は全て、前向きです。いつも前に向って生活しているに決まっているのです。魂は前に向ってでなければ働かないのです。ところが、人間の精神は、後ろのことばかりを考えている。これは絶対矛盾なのです。
人間は、昨日の経験、一年前の経験、今までの経験に基づいて、明日のことを考えようとする。これが間違っているのです。これが人間の精神が死んでいる証拠なのです。
人間の霊魂は、前に向ってゴーイングしているのですが、人間の思想は後ろに向って判断しているのです。
本当の命が分かるとどうなるかと言いますと、前に向って、前のことを見て、歩むようになるのです。これがイエスという人の名前なのです。神に向って、神を生きるのです。神とは前にあるものですから、後ろにあるものとは違うのです。
目は前に向って働いています。生理機能はいつでも前に向って働いているのです。前に向って働くという状態が、エホバでありまして、これがそのまま人間の霊魂の完成の原理になるのです。
イエスの名を信じるということは、実は、人が生きていることがそのまま神と一緒に生きていることになります。これは極めて自然の状態でありまして、いつでも無の世界に生きているのです。
明日のことを考えるというのは、明日に対して、自分は無なのです。無為を生きているのです。無の働きを生きている。しかも無の働きを生きることが、神を生きることになるのです。神を生きることが、死なない命を生きることなのです。
神とは死なない命のことなのです。神のネームを生活すれば、死なない命、死なない脳波が、人の大脳に働きかけることになるのです。
その一番の原動力は、人間の精神構造です。精神構造と言うのは、エネルギーの本質なのです。精神のエネルギーこそは、本当のエネルギーなのです。物理的なエネルギーは、精神のエネルギーが物理的に作用する場合に発生するのです。
エネルギーには、原理、原則、原動力の三つのものがあります。これは、父、御子、御霊になるのです。これは全ての幾何学の原理です。三位一体の神です。原理、原則、原動力がなければ、花は咲かないのです。原理だけではだめです。原則だけでもだめです。原理がなければ原則は発生しません。原則がなければ原動力は発生しないのです。
原理、原則、原動力の三位一体の神は、聖書だけなのです。聖書以外にはこういう神
はないのです。これは非常に物理的です。哲学的です、幾何学的なのです。物理とか、幾何の原理が、エホバからきているのです。自然にそうなっているのです。原理、原則、原動力という合理性を認識するのでなかったら、近代学は成立しないのです。近代学は、知らず知らずのうちに、原理、原則、原動力に立っているのです。あらゆる学理体系の原理は、三位一体の神の原理に従っているのです。学問は知らず知らずに、神の勉強をしているのです。父なる神はあらゆる意味で、学間の原理になるのです。
神のエネルギーが人に対して働く場合は、ザ・ネーム・オブ・ジーザス(the name of Jesus)となるのです。森羅万象に対して働く場合は、ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)となるのです。
プロミス(旧約)というのは父なる神のネームです。テスターメント(新約)は、ザ・ネーム・オブ・ジーザスの方なのです。テスターメントの実体が、イエスの御名です。イエスのネームが分かりますと、その人は神の子としての特権を与えられるのです。神のネームが分かりますと、その人は存在としての正当な位置が分かるのです。
存在としての位置と、神の子としての位置の二つがあるのです。旧約ではエホバ、新約ではイエス、この二つが聖書の原点なのです。神の実質とイエスの実体が、人間の命になるのです。命はこれしかないのです。どこを捜しても、この他に命はないのです。
 

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