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仕合せになる


釈尊は人間が空であると説いていたのです。仏を説いたのであって極楽を説いたのではありません。又、この世で幸いになることを説いたのではないのです。
仏とは何のことか。仏教を信じていながら、仏が分かっている人はめったにいないのです。寺のお坊さんが分からないのです。仏のことを仏陀と言いますが、これは正覚または正覚者のことをいうのです。これが仏です。
なぜ仏かと言いますと、『仏とは誰がいいにけん白玉の、糸のもつれをほどくなりけり』という歌があります。白玉の糸のもつれというのは、人間の人生のあり方を言っているのです。
人間が五十年、六十年の間生きていると、糸がもつれたような状態になっているのです。生活はしてきましたけれど、何が目的で生きているのか、分からないのです。
人生には矛盾が渦巻いています。これが糸のもつれです。そのもつれを解くのが仏です。
こんがらがった人生を解くのです。人間が生きていることが空であると分かった人は、解け始めているのです。
まず空であることを認識しなければ、人間の命は絶対に解けません。なぜなら、皆様は、自分で生まれたいと思ったのではないからです。生まれさせられたのです。これは、生きるべく余儀なくさせられたことです。生きるように、仕向けられたのです。自分の意志ではなくて、他人の意志で、天の意志で生まれさせられたのです。
人間は自分の気持ちで生まれたのではないのに、自分の気持ちで生きています。これが根本から間違っているのです。命の取扱いが根本から間違っているのです。
日本人はこういうことが分からないままの状態で、強引に生きている。自我意識に基づいて強引に生きている。こんな状態で、本当の幸があるはずがないので。しあわせというのは、仕合せると書くのが本当です。幸いということと、仕合せとは、意味が違います。
幸いとは、現世における出来事をいうのです。例えば、電車に乗ろうとして駅へ行ったら、幸いにしてすぐ電車がきた。幸いとは現世における巡り合わせを言っているのです。
仕合せは意識的なものです。皆様は仕合せになりたければ、すぐになれるのです。どのようにしたらいいかと言いますと、仕向けるものに対して、仕合せたらいいのです。これが本当のしあわせです。
皆様は自分で生まれたいと思ったのではないのに、生まれるようにさせられた。生まれるべく仕向けられたのです。このやり方は神の処置です。神の処置はいちいち人間に相談していません。神は絶対者です。絶対者、創造者は、やりたいことをするのです。我は全能の神なりとは、それを意味するのです。オール・マイティー・ゴッド(all mighty God)とは、絶対者のことです。
人間は生まれるべく仕向けられた。それに仕合せていないのです。そこで人生が空になるのです。空である人生が嫌だったら、仕向けられた命に対して、仕合せたらいいのです。
自分の気持ち、考え方にとらわれないで、幼児のような素朴な感覚で、物事を見る気持ちになれば、神に仕合せる方法は分かるのです。
大人は神に仕合せることはできません。しあわせになりたい人は、子供になるといいのです。
大人の根性は曲がっています。この世に五十年、六十年生きていると、根性が曲がってしまいます。だから、幼年時代のことを思い出して、子供のような気持ちになればいいのです。
自分の気持ちで生きていたら、人間は必ず不幸になります。自分の気持ちで生きていることが、間違っているからです。人間の思いは皆間違っている。生まれたいと思わないのに、生まれてきた。人間の側から言えば、生まれたくないのに生まれさせられたと言うかもしれません。親も、産もうと思って産んでいるのではないのです。人間の意志で生まれるものではないのです。
そのように、皆様は自分の意志で生まれたのではないのに、自分の意志で生きている。これが間違っているのです。
日本人は生活のことは一生懸命に考えますが、命のことを全然考えようとしていない。これが、日本人の非常に不真面目な点です。一億二千万の日本人は、全部間違っている。天意に即する生活をしていないからです。天意に反する生き方をしているのです。
人間は勝手に生きていたらいけないのです。仕向けられた原理に従って、仕合せるのです。自分の命の本質を弁えて生きれば、すぐしあわせになれるのです。天的原理に従って生きさえすればしあわせになれるのです。
心臓が動いていることが、神そのものです。だから、心臓が動いている原理をそのま生きるというお気持ちになれば、すばらしい人生が送れるのです。
すべての可能性の根拠が父です。皆様のあらゆる能力の根底が父です。皆様を産んだのは神です。神は皆様の本当の親です。この世の親は仮の親です。皆様の本当の親は、心臓が動いている原理、原点です。それが命の原点です。命の原点に基づいて生きていれば、生きているそのことが、嬉しくてたまらないし、楽しいのです。生きていることの素晴らしさを、毎日経験することができるのです。これをしあわせというのです。
しあわせになるための条件があります。それは、四十年、五十年と生きてきた自分の気持ちを、捨ててしまうことです。自分の経験、判断、記憶にとらわれないで頂きたい。それにとらわれるというのは、自分の気持ちに自分がとらわれていることなのです。
まず皆様は、自分自身を空じることが必要です。イエスは、『もし私についてきたいなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい』と言っています。なぜ自分を捨ててと言っているかと言いますと、自分を持っていたら、その人は不幸になるに決まっているからです。自分で自分の気持ちを持っていることが、不幸の原因です。
不幸になるのも、しあわせになるのも、何でもないことです。自分が救われたい、自分が幸になりたいと思っている。その自分を捨てれば、勝手にしあわせになれるのです。
 

 

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