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人間はなぜ死ぬのか


私が言いたいことは、宗教観念による人生の結論ではなく、現在人間が生きている実体について考えたいということなのです。
例えば、私達は、今日本の国民として生きています。日本という国は、現在世界の一員として、歴史的な実在の中にあります。又、私達の命も、世界歴史の一人として、68億分の一としての責任をもって生きています。歴史の流れと共に生きているのです。
世界の歴史の流れは、事実なのです。これが私達の命という概念の中の一つに入るわけで、実際私達が現在生きているということは、世界歴史の中で生きていることなのです。
そういう実体から考えまして、釈尊の思想の中には、本来如来という思想はなかったのです。大乗仏教ができてから、アショカ王以後に、こういう思想ができたのですが、釈尊ははっきり空に徹したのです。涅槃に徹した。これが釈尊独特の思想です。
釈尊は涅槃寂静の境にありました。寂滅為楽の境にあったのでしょう。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という仏法の三法印は、釈尊の思想の中心を貫くものであると、考えられるのです。
ところが、空という考え方だけでは、人間の俗念がおさまらないので、大日如来とか阿弥陀如来とか、三部経、無量寿経とかいうものをつくったということも言えるのです。
私達は現在生きているのですが、その命は世界歴史の流れの中で生きているのですから、歴史の実体、世界歴史がどこへ流れていくか、世界歴史がどのようにして今日まで展開してきたかということが、はっきり究明できないような状態では、だめなのです。
そのためには、天地創造という思想、人間の歴史の流れという思想を捉えなければ、現在生きているという事実を究明することはできないのです。従って、死も分からないのです。
死んでから如来さんの所へ行くというのは、仏教の概念であって、私達が生きているという事は概念ではありません。事実なのです。この事実を究明するためには、事実に基づいてはっきり究明する必要があります。
生れてきたという言葉があります。これは私達がごく自然に使っていることなのですが、来たというのは、どこかから来たということなのです。死んで行くというのは、どこかへ行くということなのです。どこへ行くのでしょうか。どこから生れてきたのでしょうか。
仏さんの所から来たという人があります。これは人間がつくつた概念です。そういうものではなくて、命が生れる前にどこにいたのか、このことについて宗教理論ではなくて、人間自身が生きているという現実に立って、はっきり究明することです。そして死ぬとはどうなることか、どこへ行くのかという問題を究明しなければならないのです。
現在、目が見える、耳が聞こえるという事実がありますが、これは命の本質に直面していることなのです。
皆様は現在、命を経験しておいでになります。しかし命とは何かということが分かっていない。これがはっきり分かっていないのですから、神とか仏とかいうことを考えたところで、宗教の概念の空回りをするだけなのです。
生きていながら命が分からないということは、正しく生きていないということであって、こんな状態で皆様が死んでしまうことになりますと、大変なことになるのです。
人間が現世に生きているのは、生きている責任があるのです。最近、人権がしきりに言われますが、もし人間の基本的な権利が言いたければ、基本的な責任をはっきり自覚しなければならないのです。責任を感じないで人権を主張することが、現代文明の特徴になっていますが、こういう文明は全く聞達っているのです。
文明の本質が、人間の本質からそれてしまっているのです。
人権思想は、日本国憲法にも、又国連憲章にもはっきり出ていますが、一体人権という思想はどこから出てきたのかといいますと、自我意識から出てきているのです。
近代哲学の、「我思う政に我あり」という概念から出てきているのでありまして、般若心経の思想から言えば、現在の人間の常識、知識の思想は、本質的に空だとはっきり言っているのです。
釈尊は、概念を言っているのではありません。はっきり実体を見ているのです。現在の人間は、ただ死んでいくだけなのです。人間の尊厳性とか、基本的人権とか言いますけれど、結局は死んでいくだけなのです。
死んだらどうなるかということも分からない。そういう問題について、理論ではなくて、宗教教理の並べあいではなくて、はっきり現在生きているという命から考えるのです。
私達の心臓は、宇宙の大生命によって動いている。これは自明の理であります。ところが、私達の物の考え方は、宇宙の生命にしたがって考えるのではなく、自分自身の利害得
失によって考えている。
生きているのは宇宙の命によって生きていながら、自分の都合で物を考えている。生かされている状態と、生きている気持ちとが、矛盾しているのです。そこに人間の死という運命があるのです。そういうことを究明していけば、死という問題はおのずから解明されるのです。
人間はなぜ死ぬのでしょうか。無明煩悩のうちに沈みこんでいる、肉の思いにしがみついているから、人間は死ぬのです。死というのは、妄念です。妄念を頭につめこんでいるために、人間は死なねばならないことになるのです。
だから、妄念を頭からはき出してしまえば、追放してしまえば、死そのものを追放することができるのです。
イエスが復活したのは、歴史的事実です。これは宗教観念ではありません。確かにイエスは復活したのです。日曜日はイエスの復活記念日です。皆様はその意味をご存じでも、ご存じではなくても、イエスの復活記念日を守っておいでになるのです。これは歴史的必然性です。絶対に否定ができない事実です。
例えば、現在、白人が文明の指導権を握っていることが、どういう原因によってそうなっているかといいますと、仏法ではただ因縁所生というだけで終っています。
果して因縁の原理はなにか。どうして白人が世界を指導しているのか。地球がどうして造られたのか。人間がどうして生きているのかという実体的なことについて、私達は謙虚な気持ちで探究していかなければならないと思います。
現在の文明の展開は、ユダヤ人学者による所が非常に大きいのですが、そういう事実がどうして発生したかということです。これが仏教では説明できません。どうしても聖書によらなければ分からないのです。
仏教において私達が充分に考えなければならないことは、空という思想であります。人間が生きていると思っているその生き方が、空であるということを、はっきり承知する必要があります。それによって始めて、私達は心が貧しくなり、神を見ることができるのです。
今の常識を持ったままでは、いくら神を信じようと思っても、だめなのです。人間の肉の思いを持ったままでは、死ぬに決まっている。死ぬしかないのです。
死ぬしかないというバカバカしい運命から、皆様は逃れようと思われませんか。もし逃れようと思われる方がいらっしゃれば、いくらでき相談相手になりたいと思うのです。
もちろん、私も皆様に教えて頂く点があるでしょう。お互いに教えあって、助けあって、死をふみつけていこうというのが、私のねらいです。
人間に、死にたくないという気持ちがあるということは、何とかすれば死ななくてもいい方法があるということなのですから、死をあきらめてはいけないのです。
肉の思いを放下してしまえば、人間は死ななくなるのです。「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」(新約聖書ローマ人への手紙八・六)とパウロが言っていますように、肉の思いを捨てて、霊の思いに立つことができさえすれば、人間は死ななくなるのです。この事実を究明することが、私たちが生まれてきた目的なのです。
 

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